【現地取材】安中城跡と安中藩を歩く|郡奉行役宅と武家長屋、小栗上野介の捕縛を命じられた三藩の一つ、新島襄旧宅とめがね橋

安中市指定重要文化財「旧安中藩郡奉行役宅」の標柱と、茅葺きの役宅

2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

群馬県安中市。中山道の宿場町で、幕末には板倉家2万石の安中藩が治めた城下町です。新島襄のふるさととして知られるこの町を、2026年10月に歩いてきました。

正直に書くと、安中城の遺構はほとんど残っていません。石垣も土塁も見当たらず、城跡を示す碑と、復元された郡奉行の役宅や武家長屋が、かつての城下を伝えているだけです。それでも、町を歩いていた地元の方がいろいろと話を聞かせてくださり、この小さな藩が幕末に背負ったものが見えてきました。小栗上野介を捕らえるよう命じられた三つの藩の一つが、この安中藩だったのです。

安中市指定重要文化財「旧安中藩郡奉行役宅」の標柱と、茅葺きの役宅
安中市指定重要文化財「旧安中藩郡奉行役宅」の標柱と、茅葺きの役宅(筆者撮影)
目次

安中藩と安中城跡—先に答え

場所上野国碓氷郡(いまの群馬県安中市)。中山道の安中宿
藩主板倉家(延享2年〔1745〕または寛延2年〔1749〕から明治まで)。備中松山藩の板倉家と同じく板倉重宗の子孫で、宗家(松山)に対する分家にあたる
石高2万石(老中を務めた板倉勝清の代に3万石)
幕末の藩主板倉勝明(安政遠足を行った名君)、その後を継いだ板倉勝殷
戊辰戦争早くから新政府に恭順。慶応4年、東山道総督府から高崎・吉井とともに小栗上野介の捕縛を命じられた
いま残るもの城跡の碑、復元された旧安中藩郡奉行役宅と武家長屋、安政遠足之碑。石垣や土塁は残っていない
ゆかりの人新島襄(安中藩士の子。同志社の創立者)

石垣も土塁もない城跡

安中城は、元和元年(1615)に井伊直勝(井伊直政の子)が入って整えた城です。その後、水野・堀田・板倉・内藤と藩主が代わり、18世紀半ばからは板倉家が明治まで治めました。

城があった場所はいま、学校や公共施設が建ち並ぶ町の中心になっていて、城の形はほとんどわかりません。小学校の正門前には「安中城址」と読める碑が立っていましたが(文字がかすれていて、私の読みが正しいかは自信がありません)、その前に立っても、石垣の石ひとつ、土塁の盛り上がりひとつ見当たらないのは、正直とても残念でした。本丸の跡を探すのもひと苦労で、小さな看板が立っているだけでした。

小学校の正門前に立つ碑(「安中城址」と読める)
小学校の正門前に立つ碑(「安中城址」と読める)(筆者撮影)
安中城本丸跡の案内板
「安中まち歩きコース ⑦安中城本丸跡」の小さな案内板。いまは文化センター・図書館が建つ(筆者撮影)

手がかりになるのは、郡奉行役宅に掲げられていた「安中城図」です。本丸と二の丸を堀が囲み、そのまわりを武家屋敷がぎっしりと取り巻いています。今の町並みと見比べると、この区画の上にいまの安中の町が載っていることがわかります。

役宅に掲げられていた「安中城図」。本丸・二の丸のまわりに武家屋敷が並ぶ
役宅に掲げられていた「安中城図」。本丸・二の丸のまわりに武家屋敷が並ぶ(筆者撮影)

旧安中藩郡奉行役宅と武家長屋

城下のおもかげを伝えているのが、安中市指定重要文化財の「旧安中藩郡奉行役宅(旧猪狩家)」です。説明板によると、幕末から明治の初めにかけて、郡奉行の猪狩幾右衛門懐忠が住んだ家です。安中藩には3人の郡奉行がいて、その下に4人の代官を置き、年貢の取り立てやお触れの伝達、村の治安や裁判などを受け持ちました。

建物は猪狩家から市に寄贈され、都市計画道路にかからないよう約6m南へ移して、平成5〜6年度に復元されました。茅葺きの長屋門と母屋が残り、母屋は県内でも珍しい「曲がり屋」です。西どなりには4軒続きの「旧安中藩武家長屋」と西門の枡形、北には大名小路や袋小路、藩校・造士館の跡、会所の跡があり、このあたりがかつての武家地だったことがわかります。

地元の方は、ここを「奉行所の跡」と呼んでいました。大きな城の建物が残っていない安中では、こうした役宅や長屋が、藩の暮らしを伝えるいちばんの手がかりになっています。

旧安中藩郡奉行役宅の説明板
旧安中藩郡奉行役宅(旧猪狩家)の説明板(安中市教育委員会)(筆者撮影)

地元の方に聞いた話—小栗上野介を捕らえよと命じられた藩

城跡のあたりを歩いていると、地元の方が声をかけてくださいました。その方が教えてくれたのが、「安中藩は、小栗上野介を捕らえるよう命じられた三つの藩の一つだった」という話と、「安中の板倉家は、備中松山の板倉家から分かれた家だ」という話です。どちらも資料で確かめることができました。

慶応4年、高崎・安中・吉井の三藩に下りた命令

慶応4年(1868)閏4月の小栗上野介の最期には、地元の三つの藩がかかわっています。

日付(慶応4年)できごと
4月22日東山道総督府が、高崎藩・安中藩・吉井藩に小栗の捕縛を命じる。理由は「権田村に砦を構え、大砲を備え、浪人を集めて官軍に抗おうとしている」というもの
閏4月1日三藩は小栗と話し合い、恭順していることを確かめて総督府に報告。小栗は大砲を差し出し、養子の又一を同行させることも受け入れた
閏4月3日総督府の軍監、長州の原保太郎と土佐の豊永貫一郎が高崎に来て、三藩がやらないなら本隊を出すと迫る
閏4月6日小栗は権田村の水沼河原(烏川の河原)で、家臣3人とともに斬られる。翌7日には又一も高崎で斬られた

三藩は、できれば小栗を斬らずに済ませたかったともいわれます。けれども、新政府にいち早く恭順していた小さな譜代藩に、総督府の軍監を押し返す力はありませんでした。くわしくは小栗を斬らずに済ませたかった三藩—高崎・安中・吉井に下りた「捕らえよ」の達にまとめています。

本家は「朝敵」、分家は捕らえる側

安中の板倉家と備中松山の板倉家は、どちらも京都所司代を務めた板倉重宗の子孫です。宗家は備中松山藩、重宗の次男・重形から始まる家が安中藩の板倉家で、地元の方の「松山の板倉家からの分家」という話は、おおむねその通りでした。

皮肉なのは、慶応4年の両家の立場です。本家の備中松山藩主・板倉勝静は、老中として最後まで徳川慶喜を支えたため「朝敵」とされ、のちには箱館まで転戦しました(備中松山藩/板倉家5万石:板倉勝静 老中主座を務めた藩主自ら函館五稜郭まで転戦した備中松山藩)。そのいっぽうで、分家の安中藩は新政府に恭順し、幕府の重臣だった小栗を捕らえる側に回されていました。同じ板倉の名を持つ二つの家が、同じ年にこれほど違う立場に置かれていたのです。

藩士を碓氷峠まで走らせた「安政遠足」

安中藩でもう一つ知られているのが「安政遠足(あんせいとおあし)」です。安政2年(1855)、藩主・板倉勝明は、藩士の心身を鍛えるため、藩士96人を何回かに分けて、安中城の門から中山道を通って碓氷峠の熊野権現まで、約29kmを走らせました。いまも毎年5月に、仮装して走る「安政遠足 侍マラソン」が行われています。

「安中藩安政遠足之碑」。藩主・板倉勝明が藩士を碓氷峠まで走らせた
「安中藩安政遠足之碑」。藩主・板倉勝明が藩士を碓氷峠まで走らせた(筆者撮影)

安政遠足は「日本のマラソンの始まり」ともいわれ、安中城跡には「安中藩安政遠足之碑」と並んで「日本マラソン発祥の地」の碑も立っています。近くには「安政遠足覗き石」という穴のあいた石もあり、安政遠足保存会と安中市の説明板には「この石の覗き穴より見える先は、ゴール地点である碓氷峠(熊野神社)を指しているという」と書かれていました。のぞいてみたのですが、私にはどこが峠なのか、よくわかりませんでした。

勝明は学問を好み、藩校の造士館を整えた名君として知られます。黒船来航の2年後に、藩士を峠まで走らせたのは、いざというときに動ける体をつくるためだったのでしょう。

新島襄旧宅—安中藩士の家に生まれた同志社の創立者

城跡から少し歩いたところに、新島襄旧宅があります。新島襄は天保14年(1843)、江戸神田の安中藩邸で、安中藩士の子として生まれました。元治元年(1864)、国の禁を犯して箱館からアメリカへ渡り、10年後の明治7年(1874)に帰国します。この家は、帰国した新島が両親と再会した家です。

旧宅の展示と、本家・備中松山藩の快風丸で箱館へ渡った密航の道のりは、【現地取材】新島襄旧宅|本家・備中松山藩の快風丸で箱館へ、一文無しで国の禁を破った安中藩士の子でくわしく紹介しています。

新島襄旧宅。1874年に帰国した新島が、両親と再会した家
新島襄旧宅。1874年に帰国した新島が、両親と再会した家(筆者撮影)

旧宅の中には、新島の生涯をたどる写真や資料が並んでいます。目を引いたのが、妻・八重の展示です。八重は会津藩の砲術師範・山本権八の娘で、戊辰戦争では鶴ヶ城(【現地取材】会津若松城(鶴ヶ城)と会津藩|一ヶ月の籠城に耐えた「朝敵」の城)にこもって銃を取りました。その八重が、明治15年(1882)から大正10年(1921)までに4回、夫のふるさとである安中を訪れていたことが紹介されていました。会津で新政府軍と戦った八重が、早くから新政府に恭順した安中藩の城下を歩いていたと思うと、不思議な縁を感じます。

新島襄先生之碑と、湯浅半月の詩碑

旧宅の近くには「新島襄先生之碑」が立ち、新島の歩みが説明板にまとめられています。並んで立つのが、安中出身の詩人・湯浅半月の詩碑「十二の石塚」です。半月が明治18年の同志社の卒業式で朗読した自作の新体詩で、旧約聖書に題材をとり、近代詩の草分けとされる作品です。

「新島襄先生之碑」と安中市教育委員会の説明板
「新島襄先生之碑」と安中市教育委員会の説明板(筆者撮影)
湯浅半月の詩碑「十二の石塚」
湯浅半月の詩碑「十二の石塚」(筆者撮影)

安中教会

帰国した新島は、安中で教えを説きました。その流れから、明治11年(1878)、新島から洗礼を受けた湯浅治郎ら30人によって生まれたのが安中教会です。群馬県で最初の教会で、いまの会堂(新島襄記念会堂)は、新島の死から30年を記念して大正8年(1919)に建てられました。

日本キリスト教団 安中教会
日本キリスト教団 安中教会(筆者撮影)

翌日は碓氷峠のめがね橋へ

翌日は、安政遠足の藩士たちが目指した碓氷峠のほうへ足をのばし、碓氷第三橋梁、通称「めがね橋」を見てきました。信越本線の横川と軽井沢のあいだ、急な碓氷峠を越えるためにつくられたレンガ造りの4連アーチ橋で、明治25年(1892)に完成しています。長さ91m、高さ31m、使われたレンガは約200万個。昭和38年(1963)に新線ができるまで使われ、いまは国の重要文化財「碓氷峠鉄道施設」の一つです。

幕末の藩士たちが走って越えた峠を、わずか30数年後には汽車が越えていました。下から見上げるアーチの大きさに、明治の人たちの意気込みを感じます。

見学メモ

場所メモ
旧安中藩郡奉行役宅・武家長屋安中市安中3丁目。有料(大人210円)、月曜休館(祝日の場合は翌平日)
新島襄旧宅安中市安中1丁目。入館無料、月曜休館
安中教会旧宅の近く。外から見学
碓氷第三橋梁(めがね橋)安中市松井田町。旧線跡の遊歩道「アプトの道」から近くで見られる

開館時間や料金は変わることがあります。出かける前に安中市の案内で確かめてください。

✎ 筆者のひとこと

小さな譜代藩が、本家とは逆の立場に立たされ、地元に隠棲していた旗本を捕らえる役目まで負わされました。城の形は残っていなくても、町の人の記憶には、その話がちゃんと残っていました。

正直、遺構はあまり残っておらず、武家屋敷跡や本丸跡、奉行所跡といった場所しかありません。本丸跡も小さな看板があるだけで、探すのが大変でした。石垣も土塁も残っていないのがとても残念で、もう少し城や陣屋の遺構を残してくれていたらなあ、と思いました。藩士を鍛えるために峠まで走らせたという安政遠足の話も、地元で聞かせてもらいました。それでも、地元の方がいろいろと話を聞かせてくれたおかげで、来てよかったと思えました。

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2027年NHK大河ドラマ

『逆賊の幕臣』大河ドラマ特集

放送日・キャスト28人と相関・あらすじ・見どころから、主人公・小栗忠順の生涯とゆかりの地の現地写真まで、1ページで徹底解説しています。

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参考資料:現地の説明板(安中市教育委員会)と新島襄旧宅の展示、安中市の観光案内、Wikipedia日本語版「安中藩」「新島襄」「碓氷第三橋梁」、コトバンク「安中藩」「板倉氏」、新島襄旧宅の観覧案内、旧安中藩郡奉行役宅と安政遠足覗き石の説明板ほか。写真はすべて筆者撮影(2026年10月)。

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