いまは花見と博物館の街として知られる東京・上野公園。この山はかつて徳川将軍家の菩提寺・寛永寺の境内で、慶応4年5月15日、ここで旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦いました。雨の中で始まった戦いは、夕方には終わっていました。それが「上野戦争」です。
この記事では、上野戦争がなぜ起き、どう戦われ、何を残したのかを、布陣図とイラストで解説します。彰義隊という集団の成り立ちや、小栗忠順が隊長の話を断った経緯は彰義隊とはで詳しく書いていますので、あわせてどうぞ。
上野戦争とは?ひとことで言うと
江戸城の明け渡しのあとも上野の寛永寺に立てこもった彰義隊を、大村益次郎の指揮する新政府軍が攻め、およそ1日で壊滅させた戦いです。江戸で起きた、戊辰戦争ただ一度の本格的な戦闘でした。
| 日時 | 慶応4年5月15日(1868年7月4日)。雨。午前7時ごろ開戦、午後5時ごろ終結 |
|---|---|
| 場所 | 江戸・上野の山(東叡山寛永寺)。現在の東京都台東区・上野公園 |
| 旧幕府側 | 彰義隊(頭取・天野八郎ら)と、それに加わった諸隊 |
| 新政府側 | 指揮・大村益次郎。薩摩・長州・佐賀・鳥取・肥後・佐土原などの藩兵 |
| 兵力(おおよそ) | 彰義隊 約2,000人 対 新政府軍 約1万人。ほぼ1対5の差。数字は資料によって違い、新政府軍を約2,000人とする辞典もある(くわしくは下の「両軍の顔ぶれと兵力」) |
| 結果 | 新政府軍の勝利。彰義隊は根岸方面へ敗走し、寛永寺の根本中堂などが焼失 |
なぜ上野で戦いが起きたのか
江戸城は明け渡されたが
慶応4年4月11日、江戸城は戦わずに新政府へ明け渡されました(江戸城無血開城とは)。前の将軍・徳川慶喜は水戸へ退きます。けれども、すべての幕臣がそれを受け入れたわけではありませんでした。
慶喜の警護を名目に集まった旧幕臣たちの組織が彰義隊です。慶喜が江戸を去ったあとも彰義隊は解散せず、上野の寛永寺に居すわりました。寛永寺には、皇族の輪王寺宮(公現法親王)がいました。将軍家の菩提寺に、皇族がいる。それが彰義隊にとっての大きなよりどころでした。
江戸の「治安」をめぐる争い
やっかいなことに、彰義隊はもともと江戸市中の見回りを任されていました。ところが、新政府軍の兵と町なかでぶつかり、斬り合いが起きるようになります。隊の人数もふくれあがり、勝海舟の日記には、上野に4,000人ほどが集まったと記されています。
新政府にとって、旧幕府の武装集団が江戸の真ん中にいる状態は、もう放ってはおけませんでした。5月14日、東征大総督府は彰義隊の討伐を正式に決めます。徳川家には、寛永寺にある歴代将軍の位牌や宝物を避難させるよう命じ、輪王寺宮にも上野を離れるよう勧めました。
両軍の顔ぶれと兵力
| 彰義隊(守り手) | 新政府軍(攻め手) | |
|---|---|---|
| 指揮 | 頭取・天野八郎ら | 大村益次郎(長州)。黒門口は西郷隆盛(薩摩) |
| 兵力 | 当日は2,000人足らずとする資料が多い。最盛期は3,000〜4,000人ともいわれる | 約2,000人とする辞典から、約12,000人を用意したとする解説まで、資料によって大きく違う |
| 主な武器 | 刀・槍と、旧式の銃が中心 | 洋式の小銃と大砲。佐賀藩のアームストロング砲を含む |
| 拠点 | 上野の山(寛永寺)。黒門・穴稲荷門・清水門などの門を固める | 本郷台の加賀藩邸・富山藩邸など、上野の山を囲む高台と町 |
兵力の数字がここまで食い違うのは、彰義隊が出入りの激しい寄り合いの集団だったことと、新政府軍も多くの藩の兵の寄せ集めだったためです。確かなのは、装備では新政府軍が圧倒していたことでした。
戦いの流れ ― 雨の一日

大村益次郎の作戦
攻撃の計画を立てたのは、長州の兵学者・大村益次郎です。大村は上野の山を三方から囲み、北東の根岸方面だけをわざと空けておきました。逃げ道を残しておけば、追いつめられた敵が死にものぐるいで戦うのを避けられ、戦いを早く終わらせることができます。また、夜襲ではなく昼間の攻撃を選んだのは、江戸の町に火が広がるのを恐れたためといわれます。
このとき、いちばん激しい戦いになる正面の黒門口を任されたのが、西郷隆盛の率いる薩摩兵でした。配置を見た西郷が「薩摩の兵を皆殺しにするおつもりか」と問い、大村が「そうです」と答えた、という有名な話が伝わっています。ただし、問いただしたのは別の薩摩藩士だったとする説や、そんなやりとりはなかったという証言もあり、真偽ははっきりしません。
午前:黒門口の激戦
5月15日、朝から雨が降っていました。午前7時ごろ、新政府軍の攻撃が始まります。
正面の黒門口では、門の内側に陣取った彰義隊が激しく撃ち返し、薩摩兵はなかなか前に進めませんでした。山下の町なかにも戦火が広がり、谷中でも市街戦になります。午前中、戦いは一進一退でした。
午後:アームストロング砲と寛永寺の炎上
流れを変えたのは、西の本郷台からの砲撃でした。加賀藩邸・富山藩邸のあたりに据えられた大砲が、不忍池をはさんで上野の山を撃ちます。なかでも佐賀藩が持ち込んだアームストロング砲は、当時最新の後装式の大砲で、その砲弾が山の中に次々と落ちました(彰義隊を沈黙させた大砲—アームストロング砲の衝撃)。

山内の堂舎が燃え上がり、彰義隊の陣は崩れはじめます。背後の谷中方面からも新政府軍が迫り、午後には黒門口も破られました。彰義隊は、大村がわざと空けておいた北東の根岸方面へと逃げていきます。午後5時ごろ、戦いは終わりました。
戦いのあと
放置された遺体と、弔った人々
戦いのあと、上野の山には彰義隊士の遺体が残されました。戦死者の数は、266人とする資料のほか、約200人とするもの、のちに埋葬された遺体を合わせると400体を超えるとするものもあります。新政府軍の戦死者は30人余り(戦死38人・負傷83人とする集計もあります)でした。
新政府は「賊軍」の遺体を引き取ることをなかなか許さず、遺体は雨ざらしのままにされました。それを見かねて火葬したのが、侠客の三河屋幸三郎と、南千住・円通寺の住職・仏磨和尚です。遺骨は円通寺に葬られました。いま上野公園の西郷隆盛像の近くに立つ「彰義隊の墓」は、明治になってから、生き残った隊士たちの手で建てられたものです。
輪王寺宮は奥羽へ
寛永寺にいた輪王寺宮は、戦いのさなかに上野を逃れ、江戸に潜んだのち、5月25日に羽田沖から榎本武揚の艦隊の船に乗って、常陸の平潟に上陸します。そして会津・米沢を経て仙台に入り、7月には白石城で奥羽越列藩同盟の盟主に迎えられました。上野の戦いは、東北の戦いへとつながっていったのです。
天野八郎と渋沢成一郎
彰義隊の頭取・天野八郎は江戸に潜伏していましたが、密告によって7月に捕らえられ、11月に獄中で病死しました。一方、隊の方針をめぐって天野と対立し、先に彰義隊を離れていた渋沢成一郎は、振武軍をつくって武蔵の飯能に立てこもりますが、5月23日に敗れています(飯能戦争)。
焼けた寛永寺、残ったもの
この戦いで寛永寺は、根本中堂や文殊楼、本坊など主要な建物の多くを失いました。一方で、上野東照宮、清水観音堂、五重塔などは焼け残り、いまも上野公園で見ることができます。寛永寺の正面にあった黒門は、明治40年に南千住の円通寺へ移され、門には戦いのときの弾痕がいまも残っています。
この戦いが示したもの
上野戦争は、刀と旧式の銃で守る彰義隊と、洋式の銃と大砲で攻める新政府軍との戦いでした。勇敢さでは決して劣らなかった彰義隊も、不忍池の向こうから届く砲弾にはなすすべがありませんでした。戦いの勝ち負けを決めるのが、人の数や気迫ではなく、武器と作戦になった。上野の山の一日は、時代が変わったことを江戸の人々の目の前で見せつけた戦いだったと思います。
そして、大村益次郎が逃げ道を空けておいたことで、江戸の町は大火を免れ、戦いは1日で終わりました。けれども逃げた隊士たちや輪王寺宮は北へ向かい、戦争は東北へと広がっていきます。上野戦争は、江戸の戦いの終わりであり、東北の戦いの入り口でもありました。
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場所・アクセス
上野公園(彰義隊の墓・西郷隆盛像・清水観音堂):東京都台東区上野公園。JR上野駅から徒歩約5分。
円通寺(彰義隊士の墓・移築された黒門):東京都荒川区南千住1丁目。東京メトロ日比谷線三ノ輪駅から徒歩約10分。
文:佐藤秀信
※布陣図・イラストはイメージです


