2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)は、幕末の幕臣・小栗忠順が主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、19の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る
明治42年(1909)10月26日の朝、中国東北部(当時の満州)のハルビン駅で、前の韓国統監・伊藤博文が拳銃で撃たれ、亡くなりました。撃ったのは、韓国の独立運動家・安重根(アン・ジュングン)です。
伊藤は幕末に長州藩の若き志士として動き、明治になって初代内閣総理大臣になった人物です。じつは若いころの伊藤自身も、文久2年(1862)に幕府の国学者を斬る事件に加わっていました。幕末の「暗殺の時代」を生き抜いた伊藤が、最後に異国の駅で撃たれるまでをたどります。
先に答え—伊藤博文暗殺とは
| いつ | 明治42年(1909)10月26日の朝 |
|---|---|
| どこで | 清(中国)のハルビン駅のホーム。当時ロシアが管理していた東清鉄道の駅でした |
| 誰が | 韓国の独立運動家・安重根 |
| 誰を | 枢密院議長・伊藤博文(数え69歳)。この年の6月まで初代韓国統監を務めていました |
| なぜ | 日本が韓国を保護国とし、外交権などを奪った政策の中心に伊藤がいたため。安重根は伊藤の「罪」を15か条にわたって挙げました |
| その後 | 安重根は旅順で裁かれ、翌1910年3月に処刑。同じ年の8月、日本は韓国を併合しました |
伊藤博文と幕末—「斬る側」にいた若き日
伊藤博文は天保12年(1841)、長州藩の農民の家に生まれ、のちに父が足軽の家の養子となって武士の身分を得ました。吉田松陰の松下村塾で学び、高杉晋作らとともに尊王攘夷運動に加わります。
文久2年(1862)12月、伊藤は高杉らと品川の英国公使館の焼き討ちに加わりました。同じ月には、山尾庸三とともに、幕府の国学者・塙忠宝を斬っています。塙が孝明天皇の廃位の先例を調べている、といううわさを信じての犯行でした(山尾庸三とは)。
ところが翌年、伊藤は井上馨らとイギリスへ密航し、西洋の国力を目の当たりにして、攘夷が無理なことを悟ります(伊藤博文と井上馨の留学)。帰国後は開国へ考えを改め、明治政府では大久保利通の後を継ぐ形で政府の中心に立ちました。初代内閣総理大臣、大日本帝国憲法の起草など、近代日本の骨組みをつくった人物です。
なぜ伊藤博文は狙われたのか
日露戦争に勝った日本は、明治38年(1905)、第二次日韓協約によって韓国の外交権を奪い、保護国としました。ソウルには統監府が置かれ、初代統監になったのが伊藤でした。その後、韓国の内政も日本の管理下に置かれ、韓国軍は解散させられます。これに反発する義兵の戦いが各地で起こりました。
伊藤自身は、韓国をすぐに併合することには慎重だったともいわれます。それでも、韓国の人びとから見れば、伊藤は主権を奪った政策の中心人物でした。安重根は、伊藤の罪として、韓国の王妃を殺害した事件への関わりや、条約の強制などを挙げています。
ハルビン駅で何が起きたのか

統監をやめて枢密院議長になっていた伊藤は、10月、ロシアの財務大臣ココフツォフと会談するため、満州のハルビンを訪れました。26日の朝、伊藤の乗った特別列車がハルビン駅に着き、伊藤はホームでロシアの儀仗兵の閲兵などをしていました。
そのとき、出迎えの人ごみの中から安重根が進み出て、拳銃を撃ちます。伊藤には3発が命中し、列車の中に運ばれましたが、まもなく亡くなりました。随行していた人たちも撃たれて負傷しています。安重根はその場でロシアの官憲に取り押さえられ、日本側に引き渡されました。
事件のその後
安重根は旅順の関東都督府地方法院で裁かれ、明治43年(1910)2月に死刑の判決を受け、3月26日に処刑されました。獄中では、東洋の平和についての考えを書き残しています。
伊藤の葬儀は11月4日、東京の日比谷公園で国葬として行われました。そして事件の翌年、明治43年8月、日本は韓国を併合します。
この事件の受けとめ方は、いまも日本と韓国で大きく異なります。日本では近代国家づくりの中心人物が殺された事件として、韓国では安重根は独立のために立ち上がった「義士」として語られています。
伊藤博文ゆかりの地
- 伊藤博文旧宅・伊藤博文別邸(山口県萩市):松下村塾の近くに、少年時代を過ごした家が残っています。
- 松下村塾(萩市、松陰神社内):吉田松陰に学んだ塾。
- 伊藤公資料館(山口県光市):生まれた地にある資料館。
- 伊藤博文墓所(東京都品川区西大井)
▶ この事件を起こした側の人物
- 安重根とは何をした人物か—ハルビン駅で伊藤博文を撃った朝鮮の独立運動家
幕末・明治の暗殺事件を読む
- 桜田門外の変(1860)—大老・井伊直弼
- 坂下門外の変(1862)—老中・安藤信正
- 吉田東洋暗殺(1862)—土佐藩の参政
- 本間精一郎暗殺(1862)—木屋町の天誅
- 目明し文吉の殺害(1862)—三条河原
- 清河八郎暗殺(1863)—麻布一ノ橋
- 姉小路公知暗殺・朔平門外の変(1863)
- 芹沢鴨暗殺(1863)—壬生・八木邸
- 平岡円四郎暗殺(1864)—一橋慶喜の側近
- 佐久間象山暗殺(1864)—三条木屋町
- 原市之進暗殺(1867)—将軍慶喜の側近
- 赤松小三郎暗殺(1867)—東洞院通
- 坂本龍馬暗殺・近江屋事件(1867)
- 油小路事件(1867)—伊東甲子太郎
- 横井小楠暗殺(1869)—寺町丸太町
- 大村益次郎暗殺(1869)—兵部大輔の死
- 大久保利通暗殺・紀尾井坂の変(1878)
- 森有礼暗殺(1889)—憲法発布の朝
- 伊藤博文暗殺(1909)—ハルビン駅(この記事)
✎ 筆者のひとこと
若いころに自ら暗殺に加わった伊藤が、最後は異国の駅で撃たれました。幕末から明治の終わりまで、暗殺が日本の政治と切り離せなかったことを象徴する最期だと感じます。


