亀山社中・海援隊のメンバーは、資料によって顔ぶれも人数も違います。このページでは、当サイトが個別のページを持つ五十四人を、出身の藩ごとに並べました。土佐藩の出身が二十三人、越前藩が八人、そのほかが五人、出身の伝わらない隊士が十八人です。名前をたどれば、その人一人ずつの経歴へ進めます。
幕末に坂本龍馬がつくった組織を、いま風に言えば「会社」になります。長崎で生まれた亀山社中と、それを土佐藩の外郭団体として組み替えた海援隊です。
このページは、当サイトが個別ページを持つ五十四人の隊士を、出身ごとにまとめた一覧です。名前をたどれば、その人の経歴のページへ移れます。
先に断っておくと、海援隊の隊員名簿は資料によって顔ぶれも人数も異なります。正式な入隊手続きが整っていたわけではなく、出入りも激しかったためです。この一覧も確定的なものではありません。

亀山社中から海援隊へ
元になったのは亀山社中です。神戸海軍操練所が閉鎖されて行き場を失った塾生たちを、薩摩藩の援助を得て長崎に集めたのが始まりでした。船を動かし、荷を運び、そのあいだに薩摩と長州を結ぶという、商社と海運会社と政治工作機関を兼ねたような集団です。
これが慶応三年(1867)四月、土佐藩の外郭団体として認められ、名を海援隊と改めます。隊長は坂本龍馬。海援隊約規という規約が定められ、「およそ、わが国を脱する者、および他の志ある者、この隊に入る」という趣旨で、脱藩者にも門戸が開かれていました。
しかしこの年の十一月、龍馬は京都の近江屋で斃れます。二代目の隊長となったのが長岡謙吉で、翌明治元年閏四月に海援隊は解散しました。実質わずか一年ほどの組織です。
それでも、ここに集まった人たちのその後は目を見張ります。陸奥宗光は外務大臣として条約改正にあたり、岩崎弥太郎は三菱を興し、中島信行は衆議院の初代議長、中江兆民は自由民権の思想家となりました。白峰駿馬は造船業へ進んでいます。海運会社に集まった若者たちが、そのまま明治の日本をつくる側に回ったわけです。

隊士一覧(五十四人)
土佐藩の出身(二十三人)
脱藩した者が中心です。龍馬自身も脱藩者でした。
- 坂本 龍馬
- 野村 辰太郎
- 山本 復輔(山本 洪堂)
- 中島 作太郎(中島信行)
- 吉井 源馬
- 宮地 彦三郎
- 坂本 清次郎(三好 清明)
- 中江 兆民
- 島本 要(土岐 真金)
- 丸岡 莞爾(吉村 三太)
- 武田 保輔
- 長岡 謙次郎
- 橋詰 啓太郎
- 波多 彦太郎
- 波多 恭輔
- 間崎 専吉
- 中村 官兵衛
- 由比 畦三郎
- 森田 晋三
- 高橋 勝右衛門
- 佐々木 高行
- 岡内 俊太郎
- 岩崎 弥太郎
越前藩の出身(八人)
福井の松平春嶽と龍馬の縁から、越前の若者も加わりました。
そのほかの出身(五人)
紀州、鳥取、越後、長崎の商家など、出身は土佐に限りません。
出身の伝わらない隊士(十八人)
名前は名簿に見えるものの、出身や経歴の記録がほとんど残っていない人たちです。海援隊がどれだけ雑多な集まりだったかを、この人数が物語ります。
- 長岡 謙吉
- 新宮 馬之助
- 近藤 長次郎(上杉 宋次郎)
- 高松 太郎(龍馬の甥)
- 菅野 覚兵衛(千屋 寅之助)
- 白峰 駿馬(鵜殿豊之進)
- 沢村惣之丞(関雄之助)
- 池内蔵太(細川左馬之助)
- 石田英吉(伊吹周吉)
- 安岡金馬(平安佐輔)
- 佐柳高次(前田常三郎)
- 勝間 桂三郎
- 桂井 隼太
- 島田 源八郎
- 島橋 兼吾
- 掘謙 司
- 得能 猪熊
- 渡辺剛八
名を覚えておきたい隊士
五十四人のうち、幕末維新の展開に直接かかわった人たちを挙げておきます。
陸奥宗光は紀州の出身で、龍馬に「刀を二本差さなくても食っていける男」と評されたと伝わります。明治になって外務大臣となり、条約改正を成し遂げました。
長岡謙吉は龍馬の死後に二代目隊長を務めた人です。船中八策の筆記にあたったともいわれます。
近藤長次郎は饅頭屋の子から身を起こし、亀山社中でユニオン号の購入を成功させながら、英国留学を単独で企てたことを咎められて自刃しました。龍馬は「おれがいたら殺しはしなかった」と悔やんだと伝えられます。
沢村惣之丞は龍馬と一緒に脱藩した相手です。龍馬の死後、長崎で薩摩藩士を誤って撃ってしまい、自刃しました。
菅野覚兵衛はお龍の妹を妻とした人で、龍馬の義弟にあたります。高松太郎は龍馬の甥です。
岩崎弥太郎は土佐藩の商務組織を通じて海援隊とかかわり、のちに三菱を興しました。佐々木高行は土佐藩の重役として海援隊を監督する側にいた人です。
入隊の決まり—「海援隊約規」の五箇条
海援隊には「海援隊約規(かいえんたいやっき)」という規則がありました。たった五か条です。
| 条 | 内容 |
|---|---|
| 一条 | 入隊できるのは、本藩・他藩を脱した者で、海外に志のある者。仕事は運輸・射利(商売)・開拓・投機、そして本藩(土佐)の応援。 |
| 二条 | 隊のことはすべて隊長の指示に従い、逆らってはならない。隊士が乱暴を働いて他人に大きな害を与えたときは、隊長が処分を下す(生死にかかわる処分も含む)。 |
| 三条 | 隊士は困難や危険のときに助け合う。義をもって責め合い、道理に照らして過ちを正し合う。ただし独断で過激に走り、仲間の邪魔をすることは、とくに慎む。 |
| 四条 | 政治・法律、火技(砲術)、航海、機械、語学などを、各自の志に応じて学ぶ。励まし合い、怠けてはならない。 |
| 五条 | 経費は隊士が自分で稼いだものから出し、公平に分ける。私物化してはならない。足りずに学費などが欠けるときは、隊長が申し出て、上からの支給を待つ。 |
目を引くのは二条と五条です。隊長の権限がとても強いこと、そして金は自分たちで稼ぐのが建前だったこと。会社と私設海軍を兼ねた集団らしい決まりだと思います。
給金はいくらだったのか
建前は自給自足ですが、実際には決まった金を受け取っていた時期があります。
『坂本龍馬手帳摘要』の慶応二年(一八六六)十月の項に、給金の領収証のひな形が残っています。それによると一人あたり月三両二分。支給元は薩摩藩で、対象は坂本龍馬・寺内新右門・多賀松太郎・菅野覚兵衛・白峯駿馬・陸奥元次郎・関雄之助(沢村惣之丞)の七人。毎月三日に沢村が代表して受け取り、各人に分けていたとされます。
断っておきたいことが二つあります。これは海援隊になる前、亀山社中の時期の話で、支給元も土佐藩ではなく薩摩藩です。そして史料は領収証の「ひな形」であって、支払いの記録そのものではありません。
面白いのは、隊長の龍馬も平隊士と同じ三両二分だったことです。新選組では局長の近藤勇が平隊士の十倍以上を受け取っていたとされますから、ずいぶん性格の違う集団でした。
隊長と役職—六つの科
隊長は坂本龍馬です。龍馬が近江屋で斬られたあとは、長岡謙吉が二代目の隊長になりました。
組織は文・武・器械・測量・運用・医の六つの科に分かれていたと伝えられます。文は記録と文書、武は戦闘、器械は機械、測量は航海の測量、運用は船の運用、医は医療です。
ただし、新選組のように局長・副長・組長……と階級が細かく決まっていたわけではありません。約規に出てくる役職は「隊長」だけです。隊そのものは、長崎にいた土佐藩の出張官(出崎官)の下に置かれていました。
いつ解散したのか
慶応四年(一八六八)閏四月、土佐藩の命令で解散します。閏四月二十七日とする資料もあります。龍馬が斬られてから、半年ほど後のことでした。
海援隊が生まれたきっかけ
参考にした資料
- 「海援隊約規」(青空文庫所収。底本は講談社学術文庫『龍馬の手紙』)
- 山村竜也「坂本龍馬の海援隊は自給自足といいながら、実は毎月決まった給料をもらっていた!」Yahoo!ニュース エキスパート(『坂本龍馬手帳摘要』慶応二年十月の記載について)
- コトバンク「海援隊」(日本大百科全書、ブリタニカ国際大百科事典、平凡社世界大百科事典、山川 日本史小辞典ほかの各項)
この一覧について
くり返しになりますが、海援隊の隊士名簿は一つに定まっていません。時期によって出入りがあり、記録も断片的です。当サイトも、判明している範囲で個別のページを設けているにすぎません。
また、隊士のなかには名前だけが伝わり、生没年も出身も分からない人が少なくありません。そうした人のページは短いままになっていますが、わずかな記録しか残らなかったこと自体もひとつの事実と考えて、無理に膨らませずに置いています。
あわせて読みたい:土佐藩の有名人を身分で分けると—上士・白札・郷士・地下浪人・庄屋—龍馬や武市半平太、岡田以蔵はどの身分だったのか。土佐の厳しい身分制を一覧で整理しています。
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この一覧について
当サイトが個別ページを設けている海援隊士を、出身ごとに整理したものです。海援隊の隊員名簿は資料により顔ぶれと人数が異なり、確定的な一覧ではありません。誤りやお気づきの点はお問い合わせからご指摘ください。
隊員は何人だったのか
この一覧は氏名の伝わる隊士を並べたものですが、海援隊の隊員が全部で何人だったかという問いには、はっきりした答えがありません。
高知県立坂本龍馬記念館は「約五十人(水夫、火夫含む)」としています。『日本大百科全書』も「約五十名の隊員」です。公的な説明はこの数字でおおむね一致します。一方で、氏名が判明して名簿に並ぶ人は、それよりかなり少なくなります。差は、名の残らなかった水夫や火夫です。船を動かすには甲板員も機関員も要りますが、その人たちの名前は記録に残りませんでした。
もう一つ、亀山社中と海援隊を分けて数えられない事情があります。記念館はこう書いています。「亀山社中の正確な名簿はありませんが、その後身組織である海援隊は出身藩もあわせて記録されていますので、これを参考にします」。つまり社中の時代の人数は、そもそも確かめようがありません。
出身地の内訳は記録が残っていて、土佐藩のほか越前・越後・紀伊などの出身者がいました。土佐藩出身の人数は、記念館が十二名、山口大学紀要の論文が十六人としており、ここも一致しません。
当サイトはこれまで「全五十六名」という書き方をしていましたが、この数字の典拠は見つかっていません。確かな言い方に直し、確定数を主張しない形に改めています。
隊士の名簿のもとになる一次史料は、京都国立博物館が所蔵する『龍馬乃遺墨雄魂姓名録並海援隊日史秘記』三巻です。平成十一年六月七日に重要文化財に指定された「坂本龍馬関係資料」十点に含まれ、『海援隊日史』には隊士の人名録と、海援隊約規や船中八策をさらに発展させた新政治体制の構想草案などが収められています。筆者は海援隊の長岡謙吉かとされています。


