| 関 義臣 | |||
| 出身 | 越前藩 | ||
| 職名 | |||
関義臣は、越前福井藩出身の海援隊士です。
別名を山本龍二郎。
1839年、福井藩士・山本五郎の三男に生まれます。藩校明道館に学び、幹事の橋本左内に認められて、文久二年(1862年)に昌平坂学問所に学びました。1866年(慶応二年)、長崎の坂本龍馬を訪ねて亀山社中に加盟し、のちに海援隊に属しました。1868年(明治元年)には、学問所で舎長を務めました。
1870年(明治三年)の武生騒動に関与して捕縛されるも、後に釈放されます。
大阪府権判事をはじめ、鳥取県権令や宮城控訴院検事長、大審院検事、徳島県知事、山形県知事、貴族院議員などを歴任。1907年(明治四十年)九月、日露戦争の功により男爵を授けられます。のち錦鶏間祗候となります。
1918年3月、肺炎のため死去しました。享年79。

関義臣の生きた時代—越前から海援隊へ
越前出身の隊士 関義臣は越前藩(福井藩)の出身で、文久年間に藩を出て、龍馬の亀山社中・海援隊に加わりました。海援隊には、腰越次郎・佐々木栄・小谷耕造・瓜生震など、越前の出身者がまとまって参加しています。前藩主・松平春嶽と龍馬とのつながりが、越前の若者たちを龍馬のもとへ導いたのです。
明治の関 関は明治になると政府に仕え、裁判官や地方の長官を務めました。海援隊で身につけた実務の力と人脈が、新しい国の役所の仕事に生かされたのです。
海援隊に加わった越前の志士
関義臣は、越前の出身で、幕末の動乱のなかで志士として身を立て、坂本龍馬の海援隊に加わりました。土佐以外の地からも人材が集まった海援隊の、開かれた気風を象徴する隊士の一人です。
司法・行政の道へ
維新後、関義臣は新政府に出仕し、裁判官(判事)や各地の県知事などを歴任しました。刀を手に幕末を生きた志士が、法と行政の担い手として近代国家の土台づくりに関わったのです。幕末の志が明治の司法・行政へと受け継がれていった歩みを体現する人物です。
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男爵になった海援隊士は、この人だけではありません
司法・行政の道へ進んだと上に書きましたが、行き着いた先まで書いておきます。関義臣は大阪府権判事から始まって鳥取県権令、宮城控訴院検事長、大審院検事と進み、徳島県知事と山形県知事をつとめました。明治三十年に貴族院の勅選議員、明治四十年には日露戦争の功によって男爵を授けられています。
海援隊からは、爵位を得た者が何人も出ています
陸奥宗光は外務大臣となって伯爵に、佐々木 高行は侯爵に、石田英吉と岡内 俊太郎、野村維章、そして関義臣が男爵になりました。中島 作太郎は初代の衆議院議長です。同じ幕末の武装集団でも、新選組の隊士で明治に爵位を得た者はいません。海援隊が航海術や語学、外国との商いの実務を身につけた集団だったこと、そして隊士の多くが薩長土の側にいたことが効いているのでしょうが、そう論じた研究をこちらで見つけられたわけではありませんので、断定は控えておきます。
福井藩の、そのまた家臣の子でした
この人は越前福井藩の陪臣、つまり府中本多家という重臣の家に仕える家の生まれです。藩士の家臣ですから、身分としては低いところから出発しました。福井県文書館はこの人を「海援隊出身の能吏」と紹介し、坂本 龍馬が「北陸ノ奇男児カト、吾論ト同一ニ出ントハ」と評したと伝えています。北陸から出てきた変わり者が自分と同じことを言う、という驚きです。別名を山本龍二郎、関龍二といい、号は湘雲でした。大正七年、肺炎のため麻布の自邸で亡くなっています。七十九歳でした。

