渡辺剛八【海援隊士 幕末亀山社中】

渡辺剛八
出身 越後
職名

渡辺剛八は、越後出身の海援隊隊士。

激論家で知られたといいます。慶応初頭までに海援隊の前身である亀山社中に名を連ねます。慶応二年(1866年)、大洲藩からの頼みで、いろは丸の機関方(エンジン係)として送り込まれます。

ところが翌慶応三年(1867年)四月、いろは丸は紀州藩の明光丸とぶつかって沈みます。剛八はその後始末に走り回り、紀州藩との交渉の場にも出向きました。その後は、隊長の坂本龍馬が国の大事のために各地を飛び回るあいだ、菅野覚兵衛とともに海援隊の留守を預かりました。

同じ年の十一月に龍馬が暗殺されると、剛八は怒りに燃え、一人で京に上って仇を討つと言い張りましたが、土佐藩の佐々木高行に止められたと伝えられます。海援隊の解散後は振遠隊の幹部として、戊辰戦争では奥羽に転戦しています。また、菅野覚兵衛と、龍馬の妻・お龍の妹である起美との結婚では、仲人を務めています。

渡辺剛八【海援隊士 幕末亀山社中】

出身は越後ではなく、越前です

この記事は渡辺剛八を越後の出としていますが、資料は越前、いまの福井の城下、地蔵町の生まれとしています。海援隊の顔ぶれを出自で調べた研究の表でも越前に分けられており、二つの資料が一致します。天保十二年七月十一日の生まれで、明治四十年に六十六歳で亡くなりました。

海援隊には、越前の人が五人いました

同じ研究の表を見ると、海援隊の顔ぶれは土佐藩の出が十六人で半分を占め、残りは越前と越後に偏っています。越前の出は渡辺剛八のほか、三上栄太郎、小谷耕蔵、腰越 次郎、佐々木栄の五人。橋本 久太夫が越後です。脱藩した者が寄り集まる組織でしたが、集まり方には地縁があったことがうかがえます。

名を変えて、北海道へ渡りました

振遠隊での従軍のあと、渡辺剛八は明治二年五月二十八日に「大山壮太郎」と名を改め、開拓使へ移りました。明治四年十二月に開拓権判官。のちに郷里へ戻り、明治二十六年九月に福井県吉田郡長、明治三十五年五月に大飯郡長をつとめ、明治三十七年十二月に病のため辞めています。振遠隊の幹部の名簿に見える「大山壮太朗」は、この人の後年の名です。

振遠隊とは

振遠隊は長崎の部隊です。元治元年八月に長崎奉行が治安の維持と外国人の保護のために作った警衛隊がもとで、慶応三年に遊撃隊、明治元年四月十九日に振遠隊と改まりました。長崎の地役人の次男以下や、町に道場を構える剣客とその門弟、浪人などからなり、最後は三百五十人ほど。明治元年七月十九日にイギリス船フィロン号で長崎を出て秋田へ上がり、角間川、雫石、橋場口と戦って、十月二日に盛岡城へ入りました。隊長は海援隊士の石田英吉で、ほかに野村要助、菅野覚兵衛、山本洪堂と、元の海援隊士が幹部に並んでいます。

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交渉の当事者ではなく、実務の側でした

この記事は「紀州藩との交渉の場にも出向きました」と書いていますが、いろは丸事件の交渉過程を復元した研究を見ると、当事者の一覧にこの人の名は入っていません。

名が出てくるのは別の役回りです。龍馬への伝言を運んだ人として、また賠償の件の書状を受け取った人として触れられています。つまり談判の席に座った人ではなく、連絡と後始末の実務を担った側ということになります。機関方として沈む船に乗っていた人が、そのあと走り回った。そう書くほうが実際に近いです。

生没年は天保十二年九月十五日から明治四十年、六十六歳。別名に渡辺鳳介、柴田八兵衛、大山壮太郎、大山重があります。名を四つも変えているので、記録を追うのが難しい人です。

振遠隊では監軍を命じられました

明治元年、長崎の振遠隊で監軍として秋田への出張を命じられています。軍監あるいは司令官とする記述もあります。隊長が元海援隊士の石田英吉、軍監が菅野覚兵衛でしたから、長崎から秋田へ渡った部隊の幹部に、海援隊の仲間が並んでいたことになります。

そのあとは参謀添役から大蔵省監督司権判事、開拓使へ。明治二十六年に福井県吉田郡長、明治三十五年に大飯郡長、明治三十七年に病で辞しました。北海道へ渡った人が、最後は故郷の福井で郡長を務めて終わったわけです。

渡辺剛八の生きた時代——海の底のいろは丸

いろは丸の沈没 慶応三年(1867)四月二十三日の夜、海援隊が大洲藩から借りたいろは丸は、紀州藩の明光丸と衝突し、備後の鞆の浦の沖合で沈みました。渡辺剛八も、海援隊の一員としてこの事件にかかわった一人です。

百二十年後の調査 いろは丸は長いあいだ海の底に眠っていましたが、昭和の終わりから平成にかけて、鞆の浦の沖で水中の調査が行われ、いろは丸と考えられる船体や遺物が見つかりました。いま鞆の浦には「いろは丸展示館」があり、引き揚げられた品々や、龍馬たちの談判の様子を伝える資料が展示されています。

参考資料:Wikipedia日本語版「渡辺剛八」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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