| 由比 畦三郎 | |||
| 出身 | 土佐藩 | ||
| 職名 | |||
由比畦三郎(ゆい あぜさぶろう)は、海援隊と関わりの深かった土佐藩士として伝わる人物です。猪内家の養子となっていたので由比畦三郎と称したといわれます。
伝わる話では、土佐藩の船・夕顔丸の船長をつとめ、イカルス号事件で海援隊に疑いがかかったときには、須崎まで来た龍馬を夕顔の船内にかくまったとされます。のちに開成館軍艦局の教授や局長、明治に入って第七国立銀行の初代頭取をつとめたという話もあります。ただし、こうした経歴の多くは、ほかの資料で確かめることができていません。
北光社の二代目社長という点が、食い違います
由比畦三郎を北光社の第二代社長とする話もありますが、北光社を扱う資料は、初代社長を坂本龍馬の甥の坂本直寛、二代目を澤本楠弥としています。訓子府町の町史も澤本を二代目社長と記しており、食い違います。ただし北光社の出資者の一覧には「由比直枝」という名が見えますので、この人と同じである見込みはあります。
そもそも「由比畦三郎」という名で調べても、当サイトのほかに記述が見あたりません。生没年も本名も分からず、夕顔丸の船長だったという話も、開成館軍艦局での役職も、国立銀行の頭取だったという話も、裏づけが取れませんでした。土佐藩が慶応二年に開いた開成館に軍艦局が置かれていたこと自体は確かです。
イカルス号事件のほうは、日付まで分かります
慶応三年七月六日の夜から七日の朝にかけて、長崎の丸山でイギリス軍艦イカルスの乗組員二人が斬られました。火夫のロバート・フォウド二十八歳と、大工のジョン・ハッチングズ二十三歳です。海援隊が疑われたのは、事件の数時間後に長崎へ停まっていた土佐藩の帆船と汽船が相次いで突然出て行ったためで、犯人を乗せて逃がしたとイギリス側がみたからでした。イギリス公使パークスは慶応三年八月六日に土佐の須崎港へ入り、談判に及びます。後藤象二郎はその威圧に屈せず、改めて調べ直す約束を取り付けました。真相が分かったのは明治元年十月で、下手人は筑前藩士の金子才吉、事件の二日後の七月八日の深夜に、みずから命を絶っていました。
船中八策について
夕顔の船上で龍馬が船中八策を口述したとよくいわれますが、近ごろの研究では、船中八策そのものが明治以降に形を成したものだとする見方が有力です。長岡謙吉が書き取ったという原本は残っておらず、陸奥宗光や後藤象二郎の回想にも、長岡自身の日記にも出てきません。「船中八策」という言葉が印刷物に現れるのは大正二年が初めてで、それが史実として広まったのは昭和四年の平尾道雄の著書からだといわれます。龍馬が大政奉還の建議に関わったこと自体を否む見方ではありませんが、この言葉を使うときには断りが要ります。
由比畦三郎の生きた時代—イカルス号事件の嫌疑
疑われた海援隊 慶応三年(1867)七月、長崎の丸山でイギリス軍艦イカルス号の水兵二人が斬られたとき、まず疑われたのが海援隊でした。事件の翌朝、海援隊の横笛丸が長崎を出港していたためです。イギリス公使パークスは土佐藩に厳しく迫り、龍馬や土佐藩の佐佐木高行が取り調べに応じました。
晴れた疑い 結局、海援隊の関与を示す証拠は見つからず、疑いは晴れました。真の犯人が福岡藩士の金子才吉だったと明らかになったのは、明治になってからのことです。由比畦三郎ら海援隊士にとって、この事件は隊の存続を揺るがす大きな出来事でした。
参考資料:Wikipedia日本語版「海援隊」「亀山社中」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。
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