| 丸岡 莞爾(吉村 三太) | |||
| 出身 | 土佐藩 | ||
| 職名 | |||
丸岡莞爾は、天保七年(1836)久万(現・高知市久万)に吉村三助の長男として生まれ、通称は吉村三太。
妹の「まき」は島村衛吉に嫁ぎました。
此処での多くの仲間達との交流を通して、坂本龍馬や武市半平太らーとも交わり、長崎へ渡ります。
長崎では、土佐藩の窓口だった開成館長崎商会で、総責任者の岩崎弥太郎の下で働き、龍馬や亀山社中の仲間たちとも交流しています。
龍馬の手紙の乙女姉ーやん・おやべさんに宛てた、「頭のはげた若衆」と言うのは丸岡莞爾の事です。
維新後は、明治三年官途に付き、大阪府勤務から始まり内務大書記官や社寺局長などを歴任し、沖縄県知事と高知県知事を務めました。
丸岡莞爾は、高知県出身者として最初に「高知県知事」の官名で就任した人です。
明治三十一年63歳で死去しました。

海援隊にいたという裏づけが、見あたりません
丸岡莞爾については、海援隊の隊士だったと記した資料を見つけられませんでした。人名辞典にも事典の類にも、坂本龍馬と交際があったとは書かれていても、海援隊への言及がありません。海援隊の顔ぶれを並べた一覧のいずれにも、丸岡莞爾の名も、旧姓の吉村三太の名も出てきません。当サイトがこの人を海援隊士として立てている根拠はたどれませんでしたので、そのことをここに書き留めておきます。
人物としては、はっきりしています
丸岡莞爾は天保七年五月二十八日の生まれ、明治三十一年三月六日に六十三歳で亡くなりました。土佐藩士・吉村三助長秋の長男として生まれ、のちに丸岡家を継いでいます。鹿持雅澄に国学を学んだ人で、蒼雨という号を持ち、歌集『蒼雨余滴』を残しました。
明治になってからの歩みは細かく分かります。明治三年に土佐藩の大従事、明治四年に大阪府の権大属、同じ年の十二月に左院中議生。明治七年に海軍省五等出仕、明治八年に式部権助、明治十五年に式部権頭、明治十六年に内務大書記官。明治十七年には造神宮奉行となり、明治二十年に内務省社寺局長と造神宮支庁副使を兼ね、明治二十一年九月に沖縄県知事、明治二十五年七月に高知県知事となって、その年の十一月に退いています。
親族の関係を、言い直します
このページはもともと「妻は武市半平太の叔母」と書いていましたが、調べ直すと続柄が違っていました。
伝わっているのは、丸岡莞爾の妹「まき」が島村衛吉に嫁いだという関係です。その島村衛吉は、武市半平太の妻・富子の従兄弟にあたります。富子は高知藩郷士の島村雅風(源次郎)の長女です。つまり丸岡と武市は、妹の婚家を介したつながりで、丸岡自身の妻が武市の叔母だったわけではありません。なお丸岡莞爾本人の妻については、どの資料でも確認できません。この家族関係そのものの出典も、作家・安岡章太郎の家族史『鏡川』を経由したものに限られます。
知事を務めたのは、沖縄と高知の二つです
「高知県知事になった最初の土佐人」という書き方も、正確には限定が要ります。高知県の行政長官としては、宿毛出身の林有造が初代の県令(参事)、高知金子橋出身の岩崎長武が明治五年から権令を務めていました。土佐の人が初めてというわけではありません。ただし「知事」という官名は明治十九年の地方官官制からのもので、その官名で就いた高知県出身者としては丸岡が最初になります。
その高知県知事の在任は、明治二十五年七月二十日から同年十一月二十九日までの約四か月でした。第十代です。ちなみに後任の第十一代、石田英吉も高知出身で、こちらは海援隊士でした。
そしてもう一つ、抜けていた経歴があります。高知県知事より前、明治二十一年九月に沖縄県知事を務めています。
国学の師は鹿持雅澄です
丸岡が国学を学んだのは、土佐の万葉学者・鹿持雅澄です。鹿持はほとんど独学で万葉集を中心に上代の国語を研究した人で、賀茂真淵・本居宣長の学統を受けた宮地仲枝に学んだとされます。ですから丸岡を「本居派」と呼ぶのは、間に一つか二つ段が抜けた言い方になります。歌人としては建山・掬月・蒼雨と号し、歌集『蒼雨余滴』を残しました。位階は正四位です。
海援隊にいた裏づけの代わりに
上に書いたとおり、丸岡莞爾が海援隊士だったという裏づけは見つかりません。隊士の名簿にこの人の名は載っていません。
ただ、龍馬の周辺と確かにつながっていたことを示す資料はあります。高知県立坂本龍馬記念館が所蔵する「坂本直宛丸岡莞爾書簡」です。龍馬十五年祭にあたる明治十四年十二月十八日の日付で、龍馬の跡を継いだ坂本直(高松太郎)に宛てたものです。隊士だったかどうかは分かりませんが、維新後も坂本家や海援隊の関係者と行き来があったことは、公的な館の所蔵資料で確かめられます。
なお、龍馬が姉の乙女やおやべに宛てた手紙にある「頭のはげた若衆」が丸岡を指すという話も、出典は見つかっていません。該当しそうな書状の本文を見ても、その語は出てきません。
丸岡莞爾の生きた時代—明治の神社と国の仕組み
明治の役人として 丸岡莞爾は、明治になって大阪府や内務省で働き、社寺局長などを務めました。社寺局は、全国の神社や寺院を受け持つ役所です。明治政府は神社を国の祭祀の場として位置づけ、神社の格付けや神職の任命を国が行う仕組みを整えていきました。
土佐から東京へ 丸岡は和歌にも親しんだと伝えられます。土佐の久万村に生まれ、武市半平太の叔母を妻とし、長崎で岩崎弥太郎のもとで働いた男は、明治の東京で国の役人として、また歌人として生きたのです。
参考資料:Wikipedia日本語版「丸岡莞爾」「海援隊」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。
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