| 沢村惣之丞(関雄之助) | |||
| 出身 | 土佐 | ||
| 職名 | |||
沢村惣之丞は、幕末の土佐藩出身の人物です。
別名、関雄之助。
土佐国土佐郡潮江村の浪人の子として生まれます。間崎哲馬に師事し、学問を学びます。その後土佐勤王党に加入しました。
沢村惣之丞は、文久二年(1862年)に吉村寅太郎とともに土佐藩を脱藩しました。いったん土佐に戻って武市半平太に情勢を報告したのち、坂本龍馬らとともにふたたび脱藩しています。その後は勝海舟の門下に入り、のちに海援隊に加わりました。
慶応三年(1867年)、惣之丞は、龍馬暗殺の黒幕と疑われた紀州藩の三浦休太郎を討とうとする計画に加わりましたが、果たせませんでした(天満屋事件)。
翌慶応四年、幕府の役人が逃げ去って空になった長崎奉行所に、惣之丞ら海援隊の隊士が入り、長崎の町の警備にあたりました。ところが一月十四日の警備中、薩摩藩士の川端平助を誤って撃ち殺してしまいます。惣之丞は、この事件が薩摩藩との争いの種になることを恐れ、薩摩藩の関係者が止めるのも聞かず、海援隊の本部で腹を切りました。二十六歳でした。

沢村惣之丞の生きた時代—龍馬とともに土佐を出た日
最初の脱藩 文久二年(1862)三月二十四日、坂本龍馬は土佐を脱藩しました。このとき龍馬と行動をともにしたのが沢村惣之丞です。二人は土佐の山道を越えて伊予へ抜け、長州の下関へ向かいました。沢村は龍馬より先に一度脱藩して長州の様子を見てきており、龍馬を外の世界へ導いた一人でもありました。
その後の二人 龍馬はその後、勝海舟に出会って海軍の道に進み、沢村も龍馬のそばで亀山社中・海援隊の仕事を担います。龍馬の死の二か月後、慶応四年(1868)正月、沢村は長崎で切腹して生涯を閉じました。脱藩の日から六年足らず、二人はともに三十代の前半でこの世を去ったことになります。
参考資料:Wikipedia日本語版「沢村惣之丞」「海援隊」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。
龍馬と脱藩をともにした同志
沢村惣之丞(関雄之助)は、坂本龍馬の脱藩に付き従った古参の同志で、亀山社中から海援隊へと龍馬と行動をともにしました。航海術にも通じ、海援隊の実働を支えた信頼の厚い隊士でした。
誤射の責を負った最期
戊辰戦争のさなかの長崎で、沢村は敵と誤って味方である薩摩藩士を射殺してしまいます。同盟する薩摩藩との関係を重んじた沢村は、その責任を一身に負って自刃しました。1868年(明治元年)のことです。仲間と新政府の立場を守るために自らの命を差し出した、海援隊士らしい潔い最期でした。
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亀山社中・海援隊の隊士一覧—龍馬がつくった「会社」に集まった人びと
斬ったのではなく、撃ったのでした
誤射の責を負ったと上に書きましたが、この一件の細かいところを書いておきます。慶応四年正月、長崎奉行が逃げ出したあと、佐々木 高行が海援隊を率いて長崎奉行所を接収し、警備にあたっていました。その十四日の夜、酔って近づいてきた人影を沢村惣之丞が撃ちます。刀で斬ったとする話も見かけますが、記録の多くは銃で撃ったとしています。そして倒れたのが、親しくしていた薩摩藩士だと分かりました。
この大事のときに、という理由でした
翌十五日、沢村は腹を切ります。薩摩側は止めたと伝わりますが、この大事のときに薩摩と土佐のあいだに溝を作ってはならない、というのが本人の言い分でした。二十六歳です。鳥羽・伏見の戦いが終わって一週間ほど、新政府がまだ形になっていない時期のことで、薩摩と土佐が揉めれば何が起きるか分からない—そう考えたということになります。なお撃たれた薩摩藩士の名は川端平助と伝わりますが、この名がどの史料に出てくるのかまでは確認できません。当時の指揮官だった佐々木高行の日記『保古飛呂比』が一次史料にあたる可能性がありますが、そちらは未確認です。
墓が見つかったのは平成に入ってからです
長崎の町を見下ろす高台、本蓮寺の近くの墓地に、この人の墓があります。墓石には「村木氏他 土佐住民諸氏之墓」と刻まれていて、その側面に「関雄之助延世」の名が見えます。長いあいだ所在が分からなくなっていて、判明したのは平成二年のことでした。土佐を出るとき坂本 龍馬と一緒だった男が、京にも江戸にも帰らず、長崎の他人名義の墓に百二十年あまり眠っていたことになります。


