| 竹中 与三郎 | |||
| 出身 | 二茶屋村 | ||
| 職名 | |||
竹中与三郎は、神戸に隣接する小村・二茶屋村(現在の神戸市中央区)の出身の海援隊士です。
神戸海軍勝海舟塾時代から龍馬との交流が生まれ、その閉鎖後も交友をつづけました。
慶応二年龍馬が薩長提携運動のため上京した時、幕府の間者として龍馬に近づき、買収した橋本久太夫からえた情報を幕府へと報告、寺田屋襲撃後も龍馬の動静を報知するため薩摩まで同行しようとしました。
その後、龍馬に感化され金銭面で社中・海援隊を援助し、太極丸の購入時には買主として名をつらねています。
龍馬没後、その仇討のため自ら天満屋への斬り込みを志願し参加しました。
手首を斬り落とされ、股部にも傷をおうなど満身創痍になりながらも奮戦しました。
のちの消息については不明です。
ただし、維新後、ともに天満屋へ斬り込んだ加納宗七の事業を後援した旨が伝わっています。
(生没年不詳)

幕府の間者が、仇討ちの斬り込みに加わりました
竹中与三郎は幕府の間者として龍馬に近づいた人です。慶応二年、龍馬が薩長の提携のために上京したとき、橋本 久太夫を買収して得た話を幕府へ報せ、寺田屋の襲撃のあとも龍馬の動きを知らせるために薩摩まで同行しようとしました。ところがそのうちに龍馬に感化され、今度は金を出して亀山社中と海援隊を支えるようになります。太極丸を買うときには、買主として名を連ねました。
そして龍馬が討たれると、仇を討つために天満屋への斬り込みを自ら願い出て加わりました。慶応三年十二月七日の夜のことです。手首を斬り落とされ、股にも傷を負いながら戦ったと伝わります。間者として近づいた男が、最後は命を懸けて仇討ちに出たことになります。そのあとどうなったのかは分かりません。
橋本久太夫のページとの関係
買収されたとされる橋本久太夫のページには、この話は書かれていません。橋本については、龍馬の妻お龍が語った『千里駒後日譚』に、大坂沖の船で喧嘩をして逃げてきたところを龍馬が雇った、という話が残っています。買収の件は当サイトのこのページと、龍馬の周辺を扱う一部の資料に見えるもので、外部の確かな裏づけまでは取れませんでした。
神戸の村の出です
竹中与三郎は神戸に隣り合う二茶屋村の生まれで、神戸海軍操練所のころの勝海舟の塾で龍馬と知り合い、塾が閉じられたあとも交わりを続けました。海援隊の顔ぶれを出自で調べた研究の表では「町人」に分けられています。土佐でも越前でもない、摂津の町人が海援隊に連なっていたことになります。
竹中与三郎の生きた時代—天満屋事件
龍馬の仇を討とうとして 龍馬が暗殺された翌月の慶応三年(1867)十二月七日、海援隊と陸援隊の隊士たちは、京都の油小路の旅籠・天満屋を襲いました。龍馬殺害を紀州藩の三浦休太郎の差し金と疑ったためです。いろは丸事件で紀州藩に多額の賠償を払わせた龍馬を、紀州藩が恨んでいたのではないかと考えたのです。
天満屋の斬り合い 天満屋には、三浦を守るために新選組の隊士たちが詰めていました。激しい斬り合いとなり、双方に死傷者が出ますが、三浦は軽い傷を負っただけで助かりました。陸奥宗光もこの襲撃に加わっています。のちの研究では、龍馬を斬ったのは京都見廻組だったとする説が有力です。
二茶屋村はどこにあった村か
本人の資料が乏しいので、せめて出身の村のほうを確かめてみました。
二茶屋村は実在した村で、歴史的行政区域のデータでは現在の兵庫県神戸市中央区にあたります。村の名の由来も残っていて、神戸元町商店街の資料によりますと、永禄年間に高木新左衛門と三城四郎兵衛という二人が西国街道で茶店を開き、それが繁盛して「二茶屋」が村の名になったとされます。池田家に伝わる花熊城の絵図には、走水村と神戸村の間に村名が記されています。
茶店二軒から始まった村の名が、絵図に載るほどの地名になり、いまは神戸の中心部に吸い込まれている。竹中与三郎が商人だったという伝えと、西国街道沿いの村という立地は、素直につながります。
公の資料には、名前が出てこない
正直なところを書いておきます。この人の名は、公の機関が出している資料のなかには見つかりませんでした。
国立国会図書館サーチ、ジャパンサーチ、文化遺産オンライン、京都国立博物館の館蔵品データベース、高知県立坂本龍馬記念館の所蔵品一覧、高知県、京都市、長崎市、神戸市—いずれにも「竹中与三郎」はありません。墓所も顕彰碑も見つかっていません。別名として伝わる「鳴尾屋与三郎」も同様です。
間者から支援者へ転じ、天満屋に斬り込んで手首を失ったという経歴は劇的ですが、その筋をまとめて記しているのは出典を明かしていない資料で、裏づけは取れていません。このページに書いてあることは、そういう段階の話だと受け取ってください。
天満屋事件のほうは、記録がはっきりしている
本人は分からなくても、斬り込んだ現場の記録は残っています。
京都市の石碑データベースによりますと、慶応三年十二月七日、十津川郷士の中井正五郎が、坂本と中岡の暗殺の首謀者とみなされた紀州藩士三浦休太郎を、陸奥宗光らとともに旅亭天満屋に襲い、護衛の新選組と戦って倒れました。中井正五郎殉難地の碑は下京区油小路通旧花屋町下る西側に建っています。ただし、参加者の人数や個々の名は京都市の記述には出てきません。
加納宗七という、確かめられる人物
維新後に竹中が後援したと伝わる加納宗七については、事典類に経歴が残っています。
文政十年生まれ、紀伊和歌山の人。慶応三年に神戸へ移り、外国事務役所の材木用達、和歌山藩開物局神戸下店の頭取を務めました。明治五年には生田川の旧河川敷十三・八ヘクタールを買い取って埋め立て、加納町を造成。明治八年には小野浜に港湾を築いています。明治二十年没。
神戸の町そのものを造り変えた人です。ただし、この辞典の本文に天満屋事件への関与も竹中与三郎の名も出てきません。「竹中が加納の事業を後援した」という伝えも、ここでは裏が取れていないということになります。
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