北海道の南端、松前町。桜の名所として知られる松前城は、明治元年11月5日、土方歳三が率いる旧幕府軍に攻められ、わずか数時間で落ちました。藩主の松前徳広は、内陸に築いたばかりの新しい城・館城へ移っていましたが、その館城も10日後に落城します。徳広は日本海側の熊石から小さな船で津軽海峡を渡り、弘前にたどり着いて、まもなく25歳で亡くなりました。
この記事では、箱館戦争の序盤に起きた松前城・館城の戦いと、藩主の津軽への脱出を、進軍図とイラストで詳しく解説します。箱館戦争の全体は箱館戦争とはをあわせてお読みください。
松前城・館城の戦いとは?ひとことで言うと
五稜郭を手に入れた榎本武揚の旧幕府軍が、新政府側についた松前藩を攻め、松前城と館城を落として蝦夷地を平定した戦いです。藩主の松前徳広は津軽へ逃れ、旧幕府軍はこのあと「蝦夷島政府」を立ち上げます。
| 日時 | 明治元年10月27日(28日とも)に出陣、11月5日に松前城、11月15日に館城が落城。11月22日に熊石で松前藩士が投降して終わる |
|---|---|
| 場所 | 渡島半島の南西部(現在の北海道松前町・福島町・知内町・厚沢部町・江差町・八雲町熊石) |
| 旧幕府軍 | 松前方面は土方歳三が総督(彰義隊・額兵隊・衝鋒隊など)。館城方面は松岡四郎次郎の一聯隊など。海から回天・蟠竜・開陽 |
| 松前藩 | 藩主・松前徳広。藩政は勤王派の「正議隊」が握っていた |
| 兵力(おおよそ) | 旧幕府軍 約700〜800人(松前方面)+約200〜500人(館城方面) 対 松前藩 松前城に100人足らず〜500人あまり、館城に約60人。資料によって大きく違う |
| 結果 | 旧幕府軍の勝利。松前の城下の多くが焼け、藩主は津軽へ脱出して弘前で死去。江差沖では旗艦・開陽が座礁して沈んだ |
なぜ榎本軍は松前藩を攻めたのか
藩の中のクーデター ― 正議隊
松前藩は、蝦夷地の南端を治める小さな藩でした。先代の松前崇広は老中にまでのぼった西洋通の大名でしたが、慶応2年に亡くなり、跡を継いだ松前徳広は体が弱く、政務をとれませんでした。藩の実権は筆頭家老の松前勘解由が握り、新政府と奥羽越列藩同盟の両方に使いを出すという、どっちつかずの道を歩んでいました。
これに反発したのが、下級藩士を中心とする尊王派の若者たちです。慶応4年7月28日、鈴木織太郎・下国東七郎らおよそ40人が「正議隊」を名乗って立ち上がり、箱館の新政府側(箱館府)と結んで、藩主に勤王への転向を認めさせました。勘解由は家老を辞めさせられ、8月3日に切腹します。こうして松前藩は、はっきりと新政府の側に立ちました。
海から離れた新しい城 ― 館城
新しく藩を動かすことになった正議隊は、海に面した松前城では軍艦の砲撃に耐えられないと考え、内陸の館村(いまの厚沢部町)に新しい城を築き始めます。9月に工事を始め、10月末にはひととおり完成しました。これが館城です。日本で最後に築かれた和式の城とされています。
斬られた降伏の使者
10月20日すぎ、榎本武揚の艦隊が蝦夷地に現れ、鷲ノ木に上陸した旧幕府軍は、10月26日に五稜郭へ入りました。箱館府の役人たちは青森へ逃れ、渡島半島で新政府側に残る大きな勢力は松前藩だけになります。
旧幕府軍は松前藩に降伏をすすめる使者を送りましたが、使者は殺されてしまいました。もう話し合いの道はありません。旧幕府軍は、武力で松前藩を下すことを決めます。
両軍の顔ぶれと兵力
旧幕府軍の部隊
| 方面 | 指揮 | 主な部隊 |
|---|---|---|
| 松前方面(陸) | 土方歳三(総督) | 彰義隊、額兵隊(仙台藩を脱した洋式部隊。隊長・星恂太郎)、衝鋒隊、陸軍隊、遊撃隊、工兵隊など。約700人(約800人とする資料も) |
| 館城方面(陸) | 松岡四郎次郎 | 一聯隊など。約200人(約500人とする資料も) |
| 海から | 榎本武揚の艦隊 | 蟠竜・回天が松前を砲撃。江差の攻略には旗艦開陽が向かった |
このとき松前へ向かった彰義隊は、上野戦争を生きのびた隊士や、飯能で敗れた振武軍の兵が集まって新しく作り直した隊です(渋沢成一郎とは)。
松前藩の人々
| 人物 | 立場 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 松前徳広 | 第13代藩主。25歳 | 松前城から館城へ移り、さらに熊石から津軽へ脱出。弘前で死去 |
| 蠣崎民部 | 城代家老 | 松前城の守りの中心となった |
| 鈴木織太郎・下国東七郎 | 正議隊の中心 | 7月のクーデターで藩政を握り、館城への移転を決めた |
| 三上超順 | 松前の法華寺の僧。正議隊の隊長、軍事方 | 館城の戦いで奮戦し、戦死。34歳 |
兵力と武器を比べる
| 旧幕府軍 | 松前藩 | |
|---|---|---|
| 松前城 | 約700〜800人 | 城代家老・蠣崎民部を中心に500人あまりとする資料と、主力が館城へ移ったあとで100人足らずだったとする資料がある |
| 館城 | 約200〜500人 | 約60人 |
| 武器 | フランス式の訓練を受けた部隊を中心に洋式の銃。海からは軍艦の大砲 | 城の大砲と、旧式の装備が中心だったとされる。館城では刀や槍で白兵戦になった |
| 戦いの経験 | 鳥羽・伏見から宇都宮、会津と戦ってきた兵が多い | 藩としての実戦はほとんどなかった |
人数の差だけでなく、実戦の経験と装備の差がはっきりしていました。しかも松前藩は、クーデターから3か月あまりで、藩の中もまだ落ち着いていませんでした。
戦いの流れ ― 松前城の落城まで

10月27日:土方隊、五稜郭を出る
10月27日(28日とも)、土方歳三を総督とする部隊が五稜郭を出て、海沿いの道を南西の松前へ向かいました。
11月1日〜2日:知内・福島の戦い
11月1日、知内村に泊まっていた土方隊は、松前藩兵の夜襲を受けますが、これを追い払います。同じ日、海からは蟠竜が松前を砲撃しました。翌2日には福島村でも戦いがあり、土方隊は押し進んで松前に迫ります。
11月5日:松前城、数時間で落ちる

11月5日、土方隊は松前城の攻撃を始めました。攻め口は、城の裏手にあたる搦手門です。松前城は海から来る外国の軍艦に備えて築かれた城で、三の丸には海に向けた砲台が並んでいました。その反面、陸の側、とくに裏手から攻められることはあまり考えられていませんでした。
それでも城兵は粘りました。城門を開いては大砲を撃ち、すぐに閉める。これを何度も繰り返して、攻め手にも死傷者を出したと伝わります。海からは回天と蟠竜が砲撃しましたが、波が高く、途中で引き揚げています。
しかし戦いは長く続きませんでした。城は数時間で落ち、生き残った藩兵は城下に火を放って江差の方へ退きます。この火で、松前の町のおよそ四分の三が焼けたといわれます。藩は寺町の寺にも火をつけるよう求めましたが、言うことを聞かずに寺を守った住職もいたと伝わっています。
完成から14年。外国の軍艦に備えた日本最後期の城は、外国ではなく、同じ日本人の軍勢に、それも海ではなく陸から攻め落とされたのです(松前城とは)。


館城の戦い ― 完成から半月の城
11月10日:松岡隊、館城へ
松前城を失っても、松前藩は降伏しませんでした。藩主のいる館城と、日本海側の港町・江差を拠点に、立て直そうとしたのです。
11月10日、松岡四郎次郎の率いる部隊が五稜郭を出て、内陸の道を館城へ向かいました。11日に二股、12日〜13日に稲倉石で松前藩の部隊を破り、15日の朝、館城の前に到着します。
11月15日:60人で守った城

このとき、藩主の徳広はすでに館城にいませんでした。3日前の11月12日、一族とともに城を出て、日本海側のさらに北の熊石へ逃れていたのです(いったん江差に入ったとする資料もあります)。城に残っていたのは、60人ほどの兵でした。
午前9時ごろ、攻撃が始まります。1時間ほど激しい撃ち合いが続いたのち、旧幕府軍の兵が表門の下のすき間から中へもぐりこみ、内側から門を開けました。兵がなだれこみ、刀と槍の斬り合いになります。
このとき名を残したのが、松前の法華寺の僧で、正議隊の隊長をつとめていた三上超順です。超順は右手に大刀、左手にまな板を盾がわりに持ち、味方を逃がすために一人で敵の前に立ちはだかったと伝わります。旧幕府軍の指揮官の一人に深手を負わせましたが、最後は斬られて戦死しました。34歳でした。旧幕府軍はその勇ましさをたたえ、手厚く葬ったといいます。
館城は昼ごろには落ちて焼けました。藩主が入城してから12日、完成からわずか半月あまりでした。城には松前城から運んだ道具や宝物が置かれていましたが、旧幕府軍はのちにこれを松前藩へ返しています。
江差と開陽丸の沈没
松前を落とした土方隊は、額兵隊を先頭に日本海側を北へ進み、14日に大滝の陣屋を落として江差へ向かいました。ところが、15日に江差へ着いてみると、松前藩兵はすでに引き揚げており、町は海から来た開陽によって、戦うことなく押さえられていました。
その夜、天気が急に崩れます。激しい風と波に押されて、開陽は江差の沖で岩礁に乗り上げてしまいました。助けに来た神速丸まで座礁し、開陽は数日後に沈みます(開陽丸とは)。榎本艦隊の切り札だった最強の軍艦を、旧幕府軍は戦わずに失ったのです。この損失は、翌年の春の戦いに重くのしかかることになります。

藩主・松前徳広の津軽脱出

熊石から海へ
館城を出た松前徳広は、日本海沿いを北へ逃れ、松前藩の領地の北の端、熊石村にたどり着きました。11月19日、徳広は一族や家臣ら男女60人あまりとともに、船で熊石を出ます。真冬の津軽海峡です。

船は二昼夜かけて海を渡り、津軽半島の平館村、平館の砲台の近くに流れ着きました。この航海のあいだに、徳広の幼い娘が一人、船酔いで亡くなったと、松前藩の家老が弘前藩に伝えています。
弘前での最期
一行は弘前藩の藩士たちに保護され、11月24日、弘前の城下にある薬王院を仮の住まいとしてあてがわれました。しかし、もともと肺の病をかかえていた徳広は、ここで血を吐いて倒れ、11月29日に亡くなります。25歳でした。弘前藩の記録には、のどを突いて自ら命を絶ったと書かれたものもあります。
徳広は、松前家と同じ曹洞宗の、弘前の長勝寺に葬られました。明治3年、遺骸は松前の法憧寺へ移されています。平成24年(2012年)には、長勝寺の境内から徳広の墓所の跡が見つかりました。二重の木の枠で囲まれた立派なもので、弘前藩がこの混乱の中でも徳広をていねいに葬ったことがわかります。
残された家臣たち
11月22日、旧幕府軍が熊石に着いたとき、藩主の一行はすでに海の向こうでした。船に乗りきれずに残された松前藩士およそ300人は、旧幕府軍に降伏します。これで、旧幕府軍による蝦夷地の平定は終わりました。12月、榎本たちは選挙で総裁を選び、「蝦夷島政府」を立ち上げます。
戦いのあと ― 松前藩、城を取り返す
徳広の死後、明治2年1月、幼い長男の松前修広が家督を継ぎました。そして春、新政府軍が蝦夷地へ攻めこむと、松前藩兵はその先頭に立ちます。明治2年4月17日、松前藩は松前城を取り返しました。五稜郭が開城したのは、その1か月後の5月18日です(箱館戦争とは)。
戦いのあと、松前藩は館城にちなんで「館藩」と名を改めます。一方で、旧幕府軍に協力した町人や武士を厳しく取り調べ、90人あまりを処分し、そのうち19人を町の中を引き回したうえで斬首しました。藩の中の争いと、外からの戦い。小さな藩が受けた傷は、戦いが終わったあとも深く残りました。
この戦いが示したもの
松前藩は、わずか十数年のあいだに二つの城を築きました。外国の軍艦に備えた松前城と、旧幕府軍の軍艦を避けて内陸に築いた館城です。けれども、松前城は陸の裏手から数時間で、館城は完成から半月あまりで落ちました。城を新しくしても、それを守る兵と、まとまった藩の力がなければ戦えない。この戦いはそのことをはっきり示しています。
そして、松前藩を新政府の側に向かわせたのは、7月のクーデターでした。もしクーデターがなく、松前藩が日和見を続けていたら、旧幕府軍とは戦わずにすんだかもしれません。けれども、その場合でも、春に新政府軍が攻めてきたとき、今度は新政府軍と戦うことになったでしょう。北の果ての小藩は、どちらについても戦火から逃れられない場所にいたのです。
病の身で城を二つ追われ、冬の海を渡り、異郷で亡くなった25歳の藩主。箱館戦争というと五稜郭と土方歳三が思い浮かびますが、その陰には、こうした人の姿もありました。
現地を歩く ― 松前城・館城の史跡
- 松前城(松前公園)(北海道松前町松城):本丸御門は江戸時代の建物が残る国の重要文化財。天守は昭和24年に焼け、昭和36年に再建されたもので、内部は資料館になっています。春は桜の名所
- 館城跡(北海道厚沢部町城丘):「松前氏城跡 福山城跡 館城跡」として国の史跡。土塁や百間堀が残り、三上超順の「力試しの石」があります
- 開陽丸記念館(北海道江差町):沈んだ開陽を実物大で復元し、海から引き揚げた品々を展示しています
- 長勝寺(青森県弘前市):松前徳広が最初に葬られた寺。境内で徳広の墓所の跡が見つかりました
あわせて読みたい
参考にした資料
- 文化遺産オンライン「館城跡」(文化庁)
- Wikipedia「松前徳広」「館城」「箱館戦争」「三上超順」
- 「箱館戦争」(函館の歴史を紹介する個人サイト)
文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです。古写真・肖像はWikimedia Commons(パブリックドメイン)


