武田 保輔【土佐藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

武田 保輔
出身 土佐藩
職名

武田保輔は土佐の勤皇志士。
脱藩後海援隊に参加したが、龍馬暗殺前後の海援隊員で詳しいことはわかっていません。

龍馬暗殺後の新隊長「長岡謙吉」を中心とした海援隊として同志十二人の中の一人です。、
この一隊は旧幕領だった塩飽諸島と、小豆島東部の三か村を押さえています。

武田保輔はその時のメンバーの一人で大半が土佐藩の出身者でした。
その後の海援隊は讃岐諸島の治安維持部隊となり、塩飽諸島の平定に赴きました。
そこで島民などを民兵として訓練し一隊を編成したのが梅花隊です。梅花隊は明治三年七月まで存続しました。

戊辰戦争後は外務省使掌、一等巡査等勤務。
以降の武田保輔についての詳細は不明です。

武田 保輔【土佐藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

外務省と警察へ進みました

この記事が伝えるとおり、武田保輔は戊辰戦争のあと外務省の使掌となり、のちに一等巡査を勤めました。海援隊士のその後を見ていくと、石田英吉のように県知事や男爵まで昇った人、瓜生震のように実業の世界で三菱の営業部長になった人、渡辺剛八のように名を改めて開拓使へ移った人と、道はさまざまです。武田保輔のように役所と警察に落ち着いた人もいました。

讃岐で何をしたか

龍馬の死後、長岡謙吉を新しい隊長とした海援隊は、旧幕府領だった塩飽諸島と小豆島の東の三か村を押さえました。武田保輔もその一人です。島では十七歳から三十歳までの若者を集めて梅花隊という一隊を編み、これは海援隊そのものが解散させられたあとも残って、明治三年七月まで続きました。当サイトの得能 猪熊のページには、このときの十二人の顔ぶれが並んでいます。

それ以外は、分かりません

生まれた年も、亡くなった年も、脱藩までの経歴もわかっていません。広く引かれる海援隊の隊士一覧にも、隊士の出自を調べた研究の表にも、この名はありません。

目次

武田保輔の生きた時代—塩飽本島の町並み

笠島の町並み 武田保輔らが訪れた塩飽諸島の本島には、いまも江戸時代の船方の町の姿をよく残す笠島の集落があります。白壁と格子の家が細い路地に並ぶ町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれています。塩飽の船方たちは、全国の海運で得た富で、こうした立派な家を建てました。

島を歩く 本島へは、香川県の丸亀港から船で渡ることができます。塩飽勤番所跡や笠島の町並み、海援隊士を祀る八島神社など、幕末の海援隊ゆかりの場所をめぐることができます。

参考資料:Wikipedia日本語版「海援隊」「亀山社中」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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讃岐の島を治める辞令に、名があります

慶応四年四月十二日、土佐藩が長岡 謙吉へ交付した讃岐の島々の統治を命じる辞令に、武田保輔の名が並んでいます。桂井 隼太のページに十三人の名簿を挙げましたが、この人もそのうちの一人です。龍馬が死んでから五か月後、海援隊が土佐藩の命を受けて瀬戸内の島へ渡っていく、その顔ぶれに入っていたことになります。

維新後については、裏が取れませんでした

上に書いた維新後の経歴を、外の資料で確かめることができませんでした。この人の名が出てくるのは右の辞令の名簿だけで、生没年も出身も読み方も分かりません。ただし「確かめられなかった」というのは「違う」という意味ではありません。土佐や高知の郷土史の資料、あるいは明治の役所の記録を当たれば出てくる可能性はあります。こちらで届く範囲の資料には無かった、というところまでです。

十三人のうち、名の残り方はまちまちです

同じ辞令に名を連ねた十三人のなかには、長岡 謙吉のように三河県知事まで進んで著作も残した人がいる一方、橋詰 啓太郎や勝間 桂三郎のように名簿の名前だけが残った人もいます。武田保輔は後者に近い側です。同じ辞令を受け取り、同じ船で讃岐へ渡ったはずの者どうしでも、残された記録の量はまるで違います。

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