陸奥宗光(陸奥陽之助)【紀州出身 海援隊士 幕末亀山社中】

陸奥 宗光(陸奥 陽之助)
出身 紀州
職名

陸奥陽之助は維新後の外務大臣「陸奥宗光」です。カミソリ大臣と言われていたことは有名です。
紀州藩士伊達宗広の六男として生まれるが、その後父が藩内の政争に敗れて失脚します。陽之助は江戸に出て安井息軒に師事し尊王攘夷運動に加わります。この頃に坂本龍馬や長州の桂小五郎、伊藤俊輔などと知り合います。

龍馬29歳頃、陽之助18歳のころです。
その後神戸海軍塾へ参加したり、紀州藩の明光丸と伊呂波丸との衝突事故でも、龍馬のそばにいたと伝えられます。伊呂波事件は、日本初の蒸気船同士の衝突による海難事故で、紀州藩と、土佐藩の外部機関である海援隊との間で談判が繰り返されました。結果的には坂本龍馬の卓越した交渉術により海援隊の全面勝利となり、紀州藩は莫大な損害賠償を払わされるはめになります。

大政奉還後に坂本龍馬は京都の近江屋で暗殺されます。その直後、暗殺を、伊呂波事件の報復であると考えた陸奥らは、紀州藩三浦休太郎を龍馬暗殺犯とにらみ、海援隊士及び陸援隊の隊士ら15名と、三浦の滞在先である京都の天満屋を襲撃しました。

陽之助曰く「坂本は近代史上の一傑物にして其融通変化の才に富めます。その見識議論の高き、其他人を誘説感得するの能に富めます。同時の者能く彼の右に出るものあらざりき。」と言っています。

一方、龍馬曰く「我隊中の者は大小の物を取り上ぐれば皆路頭に立つ奴なれど唯陸奥陽之助一人は、食うに困る男に非ず」と評価しています。

陸奥宗光(陸奥陽之助)【海援隊士 幕末】

目次

陸奥宗光の生きた時代—紀州藩と父・伊達宗広

父の失脚 陸奥宗光は、紀州藩の重臣・伊達宗広の子として生まれました。宗広は藩の勘定奉行などを務めた実力者でしたが、嘉永五年(1852)、藩内の政争に敗れて失脚し、幽閉されます。家は没落し、少年の陸奥は苦しい暮らしの中で育ちました。のちに陸奥が藩の外に出て、勝海舟の神戸海軍操練所や龍馬の海援隊に加わったのは、こうした生い立ちと無関係ではありません。

明治の陸奥 明治になって政府に入った陸奥は、西南戦争のとき土佐の立志社の挙兵計画にかかわったとして、明治十一年(1878)に投獄されました。出獄後はヨーロッパで学び直し、外務大臣として明治二十七年(1894)にイギリスとの条約を改め、領事裁判権をなくすことに成功します。龍馬に「二本差さなくても食っていけるのは自分と陸奥だけ」と言わしめた才は、こうして実を結びました。

参考資料:Wikipedia日本語版「陸奥宗光」「海援隊」、陸奥宗光『蹇蹇録』、外務省・和歌山市の公開資料ほか。

海援隊士の一覧を見る ›

龍馬に才を見込まれた紀州の俊英

陸奥宗光(陸奥陽之助)は紀州の出身で、坂本龍馬にその才知を高く買われ、海援隊で頭角を現しました。龍馬が、刀を差さずとも世を渡っていけるのは自分と陸奥くらいだと評したと伝えられるほど、実務と交渉の才に長けた人物でした。

明治政府の外交を担った「カミソリ大臣」

維新後、陸奥は明治政府の官僚・外交官として歩み、その鋭い頭脳から「カミソリ大臣」と呼ばれました。第2次伊藤博文内閣の外務大臣として、幕末以来の懸案であった不平等条約の改正に取り組み、1894年(明治二十七年)に領事裁判権(治外法権)の撤廃を実現します。さらに日清戦争の講和である下関条約の締結や、その後の三国干渉への対応など、近代日本の外交の要を担いました。回想録『蹇蹇録(けんけんろく)』は、当時の外交の内幕を伝える名著として知られます。海援隊で養った国際感覚が、日本の主権回復へと結実したといえます。

▼ ほかの隊士もまとめて見る
亀山社中・海援隊の隊士一覧—龍馬がつくった「会社」に集まった人びと

いろは丸の談判に、名前が出てきません

陸奥がいろは丸事件の談判に加わったという話はよく語られますが、交渉の当事者として記録に名が挙がるのは別の人たちです。土佐・海援隊の側が坂本龍馬、小谷耕蔵、腰越次郎、岩崎弥太郎。紀州藩の側が高柳楠之助、岡本覚十郎、成瀬国助、福田熊楠、茂田一次郎。陸奥の名は出てきません。

衝突は慶応三年四月二十三日、談判は五月十五日から長崎の聖福寺で行われました。賠償は八万三千五百二十六両余で約し、のちに七万両へ減額して十一月七日に支払われています。紀州藩の出身である陸奥が、紀州を相手にした交渉に立ったという筋は話としては面白いのですが、裏が取れませんでした。

同じように、「刀を二本差しても余るほどの才覚」という龍馬の評もわかっていません。流布しているのは「二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」という形ですが、これも出典が示されていません。

暗殺の二日前の手紙が残っています

龍馬との近さを示す材料としては、こちらのほうが確かです。慶応三年十一月十三日、暗殺の二日前の日付で、龍馬が陸奥に宛てた書簡が現存しています。脇差と短刀のやり取りを記した内容で、高知県立坂本龍馬記念館の講演録に本文が引かれています。

天満屋事件は慶応三年十二月七日。十津川郷士の中井庄五郎、沢村惣之丞、岩村精一郎、大江卓ら十五、六名が、紀州藩公用人の三浦休太郎を襲いました。陸奥が三浦を黒幕と断じて計画を主導したとされますが、この筋の出典として挙げられているのは小説で、公的な記録では確認できません。襲撃側では中井庄五郎が死んでいます。

兵庫県知事だったのは、一か月ほどです

維新後の経歴で意外なのがここです。兵庫県の歴代知事の一覧によると、陸奥宗光の在任は明治二年六月二十日から七月十七日。およそ一か月でした。前任が中島錫胤、後任が税所篤です。初代が伊藤博文というこの県の知事の座を、一か月で通り過ぎたことになります。

そのあとは紀州へ戻り、十四代藩主の徳川茂承に信頼されて津田出とともに藩政改革に当たりました。紀州藩権大参事を務め、明治四年に神奈川県令、明治五年に地租改正局長と租税頭、明治六年六月に大蔵少輔。伊藤博文と連名で、地租改正・四民平等・廃藩置県などを求める建白書を出しています。

獄中で訳した本の名前

明治十年の西南戦争に呼応した土佐立志社の挙兵計画に加わり、翌明治十一年に検挙されて除族のうえ禁獄五年。特赦で出たのは明治十六年一月です。

この獄中で訳したのがベンサムの『道徳および立法の諸原理序説』で、書名は『利学正宗』。明治十六年に稲田佐兵衛から上下二冊で刊行されました。国立国会図書館の書誌で確かめられます。五年の禁獄のあいだに功利主義の古典を訳し、出たあとに外務大臣まで行った人です。

墓は鎌倉にあります

墓所は神奈川県鎌倉市扇ガ谷の寿福寺です。もとは大阪市天王寺区夕陽丘町にあり、昭和二十八年に寿福寺へ改葬されたと伝わります。源頼朝ゆかりの寺で、高浜虚子や大佛次郎の墓も同じ境内にあります。

和歌山の銅像は、和歌山城内ではなく、城に隣接する岡公園に立っています。昭和四十六年八月二十四日の建立で、命日に合わせた日付です。明治百年と県制百年、和歌山市政八十年の記念事業として建てられました。令和三年八月には建立五十周年の式典が開かれ、令和七年三月からは市内六つの郵便局でこの像の風景印が使われています。

外務省の構内にも銅像があります。明治四十年の建立でしたが戦時中の金属供出で失われ、昭和四十一年十二月十五日に北側の庭園へ再建されました。外務省で唯一の、歴代大臣の銅像だそうです。

亀山社中・海援隊のメンバー一覧(隊士五十四人) ›

  • URLをコピーしました!
目次