波多 彦太郎【土佐藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

波多 彦太郎
出身 土佐藩
職名

後波多彦太郎は土佐藩出身の海援隊士です。
河田小龍のもとで勉強し、その才気は13歳にして素晴らしかったと書かれています。

近藤長次郎や新宮馬ノ助よりも学問が出来たといいます。
龍馬暗殺後の新隊長「長岡謙吉」を中心とした海援隊として同志十二人の中の一人です。

この一隊は旧幕領だった塩飽諸島と、小豆島東部の三か村を押さえています。
程なく小豆島が倉敷県の管轄となり倉敷県に就官するも程なく病死しました。

波多 彦太郎【土佐藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

小豆島を預かった人です

慶応四年、龍馬を失ったあとの海援隊は、讃岐の島々を治める仕事に就きました。長岡謙吉が琴平で本部を預かり、八木彦三郎が塩飽を、そして波多彦太郎が小豆島を受け持ちます。近年の研究では、この人は岡崎山三郎という名でも呼ばれていたとされます。小豆島では「梅花隊」という組織も作られました。

それ以外は、分かりません

生まれた年も、亡くなった年も、どこの出かも、わかっていません。広く引かれる海援隊の隊士一覧に、波多彦太郎の名は出てきません。小豆島を預かったという一点だけが、島の側に残った記録からたどれる人です。

海援隊が島々を治めた、四か月

慶応四年正月、朝廷が高松藩の討伐を命じると、土佐藩の軍が讃岐へ入りました。正月二十日に塩飽諸島が土佐藩の預かりとなり、二十二日から二十四日にかけて海援隊が塩飽へ渡ります。二月九日には朝廷から土佐藩へ讃岐の島々と小豆島を鎮める命が下り、四月十二日に長岡謙吉へ正式な隊長の任命書が渡され、四月十五日には占領した地へ布令が出されました。ところがその半月ほどのちに、土佐藩から海援隊へ解散の命が下ります。島を預かってから四か月ほどのことでした。明治三年には塩飽の本島に、海援隊士十三人を生き神として祀る社が建てられています。

目次

波多彦太郎の生きた時代—讃岐高松藩の降伏

朝敵とされた高松藩 慶応四年(1868)正月、讃岐の高松藩(松平家十二万石)は、鳥羽伏見の戦いで旧幕府側に兵を出していたため、新政府から「朝敵」とされました。土佐藩と丸亀藩などの兵が高松に迫ると、高松藩は戦わずに降伏し、責任者として家老二人が切腹しています。

塩飽への道 高松藩は徳川御三家の水戸家の分家で、塩飽諸島とも近い位置にありました。海援隊が塩飽を預かったのは、この高松藩の降伏と同じ時期のことです。讃岐の海と陸で、新しい支配への切り替えが一気に進んでいました。

参考資料:Wikipedia日本語版「海援隊」「亀山社中」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

海援隊士の一覧を見る ›

▼ ほかの隊士もまとめて見る
亀山社中・海援隊の隊士一覧—龍馬がつくった「会社」に集まった人びと

▼ 龍馬の死後、海援隊が瀬戸内の島々で何をしたのか
龍馬の死後、海援隊は瀬戸内の島を占領していた—塩飽・小豆島の統治と梅花隊

小豆島を預かり、県の次席まで進みました

この人は讃岐の統治で小豆島の受け持ちになりました。桂井 隼太のページに挙げた慶応四年四月十二日の辞令、十三人の名簿にも名があります。そして小豆島が倉敷県へ移されたあと、権知事になったと伝えられます。権知事は知事に次ぐ役ですから、島を預かった海援隊士がそのまま県の次席へ移ったことになります。隊が解散したあとの行き先としては、かなり上の部類です。

別名について、食い違いがあります

ただし一つ引っかかるところがあります。小豆島の責任者を「岡崎山三郎(波多彦太郎)」と記す資料があり、同じ人の別名として扱っています。ところが同じ四月十二日の辞令には「岡崎恭介」という名が別に並んでいて、こちらは十三人のうちの一人として波多彦太郎とは別に数えられています。岡崎という姓が二つ出てくるわけで、山三郎と恭介が同じ人なのか、波多彦太郎と岡崎山三郎が同じ人なのか、こちらでは解けませんでした。当サイトには波多 恭輔という隊士のページもあり、名の重なりがさらに込み入っています。

島を治めるとはどういうことだったか

小豆島も塩飽も、海援隊が乗り込む直前まで揉めていた土地です。中村 官兵衛のページに書いたとおり、塩飽の本島では正月に十八人が殺される騒動が起きていました。そこへ入って年貢を軽くし、既存のしくみを壊さずに収めたのが、この人たちの仕事です。島の人が二年後に社を建てて祀ったのは、その治め方が受け入れられたからでした。

  • URLをコピーしました!
目次