新宮 馬之助【海援隊士 幕末亀山社中】

新宮 馬之助
出身 土佐藩(香美郡新宮村・農民の出)
職名

新宮馬之助(しんぐう うまのすけ)は、亀山社中・海援隊の隊士です。土佐国香美郡新宮村、いまの高知県香南市野市町新宮の生まれで、寺内信左衛門という別の名も伝わります。天保七年(1836年)に生まれ、明治十九年(1886年)に五十一歳で長崎に没しました。

目次

海援隊で、ただひとりの農民の出でした

海援隊の顔ぶれを出自で分けた研究では、上士・郷士・下士・庄屋・医師・町人・豪商と並ぶなかで、馬之助ひとりが「農民」に分けられています。土佐藩の出身ではあっても、藩士の家に生まれたわけではありません。武士の家の者が多い隊のなかで、身分の違う若者が龍馬のもとで同じ仕事をしていたことになります。

長崎港を見下ろす亀山の高台で洋式帆船を指さす坂本龍馬と仲間たち(イラスト)
長崎港を見下ろす亀山の高台に集まった龍馬と仲間たち(イメージイラスト)。写真ではありません

絵を志した少年が、航海術を学びました

はじめは高知で河田小龍に入門して学問と絵を学び、少年のころは画家になろうとしていました。河田小龍は漂流から帰ったジョン万次郎の話を書き留め、龍馬に世界の広さを説いた人で、二代目の海援隊長となる長岡謙吉も同じ門下でした。

その後、焼継(焼き物の継ぎ直し)の修業のため江戸へ出て、そこで龍馬に誘われて勝海舟の塾へ入ります。神戸海軍操練所で航海術を身につけ、長崎で亀山社中が結成されると、それに加わりました。

文久三年には、すでに龍馬の仲間でした

高知県立坂本龍馬記念館の企画展に、文久三年(1863年)のものとみられる「髙松太郎・新宮馬之助・千谷寅之助宛 廣井磐之助書簡」が出ています。亀山社中ができるより前から、龍馬の周りの同志のなかにいたことが、この一通から分かります。

長崎の湊の倉庫街で荷を数える羽織袴姿の男と、荷を運ぶ人足たち(イメージイラスト)
慶応年間の長崎、湊の倉庫街(イメージイラスト)。写真ではありません。

亀山社中の拠点

馬之助が仲間とともに暮らしたのは、長崎の市街を見下ろす伊良林の亀山でした。慶応元年(1865年)ごろ、龍馬たちはここに拠点を置き、のちに「亀山社中」と呼ばれる組織をつくります。薩摩藩の援助を受けながら、船を動かし、武器や物資を運ぶ仕事を担いました。その跡にはいま「亀山社中記念館」が建ち、当時の雰囲気を伝える部屋が公開されています。

薩長同盟が結ばれた場に、いました

慶応二年(1866年)正月二十一日、京都の薩摩藩邸で長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛が手を結んだとき、新宮馬之助はその場に坂本龍馬らとともに居合わせていたと伝えられます。寺内信左衛門の名は、同じ年の十月の龍馬の手帳にも、薩摩から給金を受け取る七人の一人として出てきます。

坂本龍馬の肖像写真
坂本龍馬(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

同じ正月には、社中の仲間の近藤長次郎が長崎で腹を切っています。日付は十四日とする説と二十三日とする説があり、二十三日を採れば同盟が成った二日後です。京で同盟の場に立ち会っていた者と、長崎で死んだ者が、同じ月のうちにいたわけです。

浦賀で、海軍の士官になりました

維新後は浦賀の海兵団に入り、海軍大尉まで進んだとされます。ただ、明治十六年の記録に中尉従七位とあるという資料もあり、昇進の前後関係ははっきりしません。蝦夷地の開拓に関わったと書くものもありますが、当サイトでは裏を取れませんでした。龍馬に蝦夷地開拓の構想があったことはよく知られていますので、それと混じった可能性もあります。

亡くなったのは明治十九年、長崎でのことでした。海の仕事を教わった土地で、その一生を終えたことになります。

参考資料:Wikipedia日本語版「新宮馬之助」「海援隊」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

海援隊士の一覧を見る ›

亀山社中・海援隊のメンバー一覧(隊士五十四人) ›

  • URLをコピーしました!
目次