| 新宮 馬之助 | |||
| 出身 | 土佐藩士 | ||
| 職名 | |||
新宮 馬之助は、土佐藩出身の海援隊隊士です。別名は寺内信左衛門と言います。
高知で河田小龍に師事し、学問や絵を学び、その後「焼継業修業」のため江戸へ遊学します。遊学中に坂本龍馬の誘いで勝海舟に師事し、その後は龍馬と行動を共にします。
神戸海軍操練所で航海術を学んだ後、長崎で結成された亀山社中(海援隊)に参加しました。慶応二年一月二十一日、長州藩代表桂小五郎と薩摩藩代表西郷隆盛が京都薩摩藩邸で会見し、薩長同盟を締結した際には、龍馬らとともに調停役として同席します。その後、海援隊の中心メンバーとして活躍します。維新後は浦賀にあった海兵団に所属、海軍大尉まで出世します。長崎市で死去しました。享年51。
海援隊で、ただひとりの農民の出でした
新宮馬之助は天保七年の生まれ、明治十九年に五十一歳で長崎に没しました。土佐国香美郡新宮村、いまの高知県香南市野市町新宮の出身です。海援隊の顔ぶれを出自で分けた研究では、上士・郷士・下士・庄屋・医師・町人・豪商と並ぶなかで、馬之助ひとりが「農民」に分けられています。寺内信左衛門という別の名も伝わります。
絵を志した少年が、航海術を学びました
はじめは河田小龍に入門して学問と絵を学び、少年のころは画家になろうとしていました。龍馬に誘われて勝海舟の塾へ入り、航海術を身につけます。河田小龍は漂流から帰ったジョン万次郎の話を書き留め、龍馬に世界の広さを説いた人で、二代目の海援隊長となる長岡謙吉も同じ門下でした。
文久三年には、すでに龍馬の仲間でした
高知県立坂本龍馬記念館の企画展に、文久三年のものとみられる「髙松太郎・新宮馬之助・千谷寅之助宛 廣井磐之助書簡」が出ています。亀山社中ができるより前から、龍馬の周りの同志のなかにいたことが、この一通から分かります。維新後は北海道の開拓に携わり、そののち浦賀の海兵団に入って海軍大尉になりました。
新宮馬之助の生きた時代—亀山社中の拠点
亀山の社中 新宮馬之助が仲間とともに暮らしたのは、長崎の市街を見下ろす伊良林の亀山でした。慶応元年(1865)ごろ、龍馬たちはここに拠点を置き、のちに「亀山社中」と呼ばれる組織をつくります。薩摩藩の援助を受けながら、船を動かし、武器や物資を運ぶ仕事を担いました。
いまの亀山社中 その跡には、いまも「亀山社中記念館」が建っています。当時の建物の雰囲気を伝える部屋が公開されています。記念館のそばには、龍馬のブーツをかたどった像もあり、長崎の坂の町に、隊士たちの暮らしをしのぶことができます。
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薩長同盟が結ばれた場に、いました
この人について、あまり知られていない一事があります。慶応二年正月二十一日、京都の薩摩藩邸で薩摩と長州が手を結んだとき、新宮馬之助はその場に坂本 龍馬らとともに調停役として居合わせていたと伝えられます。幕末の流れを変えた会談の席に、土佐の一隊士がいたことになります。別名を寺内信左衛門といい、この名は慶応二年十月の龍馬の手帳にも、薩摩から給金を受け取る七人の一人として出てきます。
同じ月に、仲間が長崎で死んでいます
薩長同盟が結ばれた正月二十一日の前後というのは、社中にとって重い時期でした。近藤 長次郎が長崎で腹を切ったのが、同じ正月です。日付については十四日とする説と二十三日とする説があり、二十三日を採れば同盟が成った二日後ということになります。京で同盟の場に立ち会っていた者と、長崎で死んだ者が、同じ月のうちにいたわけです。
浦賀で、海軍大尉になりました
維新後は浦賀の海兵団に入り、海軍大尉まで進んだとされます。明治十六年の記録に中尉従七位とあるという資料もあり、そのあたりの前後関係ははっきりしません。蝦夷地の開拓に関わったと書くものもありますが、こちらでは裏を取れませんでした。龍馬に蝦夷地開拓の構想があったことはよく知られていますので、それと混じった可能性もあります。亡くなったのは明治十九年、長崎でのことでした。五十一歳です。海の仕事を教わった土地で、その一生を終えたことになります。

