| 橋詰 啓太郎 | |||
| 出身 | 土佐藩 | ||
| 職名 | |||
橋詰啓太郎は土佐藩出身の海援隊士です。
慶応四年(明治元年)正月、塩飽諸島の本島で小坂騒動が起こりました。この騒動を、高松藩の朝敵追討に来ていた土佐藩士が知ることになります。
ただし海援隊が本島へ入ったのは騒動が収まったあとで、鎮圧にあたったわけではありません。仕事は焼け跡の後始末と占領統治でした。それでも島の人びとは隊士を恩人として神に祀り、その社はいま八島神社と呼ばれています。
この時の土佐藩士は、八木彦三郎、長岡謙吉、石田英吉、島村小右衛、橋詰啓太郎、武田保輔、中村官兵衛、島田源八郎等がおもだった顔ぶれでした。

八島神社という名の由来
島の人びとが隊士を神に祀ったこの社の名は、三度変わっています。まず明治三年、海援隊士を祭神とする「土州様」が小坂の大山神社に合わせ祀られました。次に大正七年、祀られた隊士十三人の名が分かったことから「十三神社」と改まります。そして昭和九年、十三人のうち実際に塩飽を受け持ったのは数名だったと判明し、八木彦三郎と島村要の頭の字を取って「八島神社」となりました。八木彦三郎は「生佛さま」、島村要は「活き仏さま」と呼ばれて敬われたと伝わります。
祀られた十三人が誰かは、分かりません
十三人の名を並べた資料は、探した範囲では見つかりませんでした。『八島神社誌』という郷土の記録に載っている見込みがありますが、確かめられていません。橋詰啓太郎その人についても、生まれた年も出身も、そのあとどうなったのかも分からないままです。
小坂騒動とは
慶応四年正月の小坂騒動は、人名という株を持つ泊の側と、株を持たない小坂の間人の側との争いでした。小坂の漁師が泊を襲い、泊の側が他の島から人を集めて小坂を焼き払い、小坂の側に十八人の死者が出ています。海援隊が本島へ入ったのは騒ぎが収まったあとで、焼け跡の後始末と占領の統治がその仕事でした。
橋詰啓太郎の生きた時代—備前岡山藩の動き
西国の大藩 海援隊が塩飽に入った慶応四年(1868)正月、瀬戸内海の対岸では、備前の岡山藩(池田家三十一万石)が新政府側について動いていました。藩主の池田茂政は徳川斉昭の子で、将軍慶喜の弟にあたりますが、藩は新政府に従い、旧幕府側とされた姫路藩の城を囲む兵も出しています。
瀬戸内の治安 岡山藩の兵は、正月の神戸で外国人と衝突する「神戸事件」も起こしており、新政府はその処理にも追われました。瀬戸内の海と島々の治安を守ることは、新しい政府にとって大きな課題だったのです。
参考資料:Wikipedia日本語版「海援隊」「亀山社中」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。
▼ ほかの隊士もまとめて見る
亀山社中・海援隊の隊士一覧—龍馬がつくった「会社」に集まった人びと
▼ 龍馬の死後、海援隊が瀬戸内の島々で何をしたのか
龍馬の死後、海援隊は瀬戸内の島を占領していた—塩飽・小豆島の統治と梅花隊
十三人のうち、十二人のページがあります
桂井 隼太のページに書いたとおり、慶応四年四月十二日に土佐藩が海援隊へ讃岐の島々の統治を命じた辞令には、十三人の名が並んでいます。橋詰啓太郎はその一人です。そして当サイトには、この十三人のうち十二人のページがありました。
宮地 彦三郎(八木彦三郎)、波多 彦太郎、勝間 桂三郎(勝間圭三郎)、桂井隼太、橋詰啓太郎、島橋 兼吾(島橋謙吾)、武田 保輔、得能 猪熊、島田 源八郎、島本 要(土岐 真金)(島村要)、掘謙 司(堀兼司)、長岡 謙次郎。ページの見当たらないのは岡崎恭介の一人だけです。括弧のなかは辞令での書き方で、半分近くの名が当サイトの表記と食い違っています。
十三人が、どこへ配られたのか
この十三人が全員そろって一つの島にいたわけではありません。小豆島の責任者になったのは波多彦太郎で、塩飽の本島へ先に入ったのは中村 官兵衛と島田源八郎ほか七、八人、その翌日に八木彦三郎が来島しています。中村官兵衛の名は辞令の十三人に入っていませんから、辞令に名のある者だけが讃岐へ渡ったのでもありません。昭和九年に神社の名が「十三神社」から「八島神社」へ改められたのは、実際に塩飽を受け持ったのが十三人のうちの数人だったと分かったからだと伝えられます。
橋詰啓太郎について分かるのは、名簿だけです
この辞令に名があるほかは、読み方も出身も生没年も、維新後の消息もわかっていません。十三人のうち、長岡 謙吉のように県知事まで進んだ者もいれば、名前だけが紙の上に残った者もいます。同じ辞令に名を連ねながら、残された記録の量はこれほど違います。



