| 森田 晋三 | |||
| 出身 | 土佐藩 | ||
| 職名 | |||
土佐藩出身の海援隊士であるが、土佐藩から出向という形です。
土佐藩士森田三蔵の養子となり森田性を名乗ります。
文久年間、藩命により長崎に出張、慶応元年と2年には上海に渡航しました。
長崎を舞台に土佐交易の開拓と伸長のため力を尽くしました。
慶応三年四月の海援隊士のなかにも名前が出てきます。
維新後は岩崎弥太郎の九十九商会に入り、明治十九年まで三菱本社に勤めました。
少年時代より絵に巧みで、はじめ南画を学びましたが、長崎出張中は清国人の画家に習い、上海では有名画人と交わって技を磨きました。
三菱退社後は詩文や画に余生を過ごしました。
享年57歳。

この人についても、資料が見つかりませんでした
森田晋三という名で調べても、当サイトのほかに記述が見あたりません。生まれた年も、亡くなった年も、出身も、何をしたのかも、わかっていません。
海援隊の名簿は、一つではありません
海援隊に誰がいたかを示す名簿は、じつのところ一つに定まっていません。事典が挙げる人数はおよそ五十名、よく引かれる一覧は十五名ほど、隊士の出自を調べた研究の表は二十八名です。当サイトが並べている五十四名という数も、ほかの資料では確認できません。『海援隊約規』は「本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志のある者、この隊に入る」と定めており、脱藩者の集まりという性質上、誰がいつ入って抜けたかが書き留められにくかったのだろうと思われます。そのために、名だけが伝わって素性の知れない人が残りました。森田晋三もその一人です。
森田晋三の生きた時代—明治の福井とグリフィス
福井に来たアメリカ人 森田晋三の故郷・越前(福井)では、明治四年(1871)、藩の招きでアメリカ人のウィリアム・グリフィスが福井にやってきました。グリフィスは藩校で化学や物理を教え、のちにアメリカで日本を紹介する本『皇国』を著しています。
越前の開かれた気風 幕末に龍馬や横井小楠を受け入れた越前は、明治になっても西洋の学問を積極的に取り入れました。海援隊に加わった越前の若者たちも、こうした藩の気風の中で育ったのです。
参考資料:Wikipedia日本語版「海援隊」「亀山社中」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。
▼ ほかの隊士もまとめて見る
亀山社中・海援隊の隊士一覧—龍馬がつくった「会社」に集まった人びと
海援隊の人数は、資料によってまるで違います
この隊士について調べたところ、当サイト以外の資料には一つも出てきませんでした。名前が載っている名簿すら見つけられません。ただ、これは森田晋三だけの話ではなく、海援隊という組織の性格から来ています。何人いたのかという数字そのものが、資料ごとにばらばらなのです。
二十余名から五十余名まで
『改訂新版 世界大百科事典』は、神戸の海軍操練所で学んだ者のうち二十余名が長崎へ移ったと書きます。これは亀山社中の話です。『日本大百科全書』は海援隊の隊員を「約五十名」とします。ある大学の研究論文が出身別にまとめた表は二十八名。日本語版の百科事典の隊士一覧にいたっては、土佐の十三人ほどと下関の一人しか名が挙がっておらず、越前や讃岐は見出しだけで中身が空になっています。当サイトが五十四人としているのは、こうした資料を突き合わせて独自に数えたものです。
なぜ数が定まらないのか
海援隊は脱藩した者が随時出入りする集まりで、在籍名簿を備えた役所のような組織ではありませんでした。『海援隊約規』にも署名欄はありません。京都国立博物館に『雄魂姓名録』という名簿らしき巻物が伝わっていますが、翻刻も収載人数も公開されておらず、何人の名があるのかは分からないままです。ですから「海援隊士は何人か」という問いには、いまのところ答えがありません。森田晋三のように、どこかの名簿にだけ名が残り、外から確かめられない人がいるのも、そのためです。福島 某のように姓だけが残った人もいます。

