高松 太郎(龍馬の甥)【海援隊士 幕末亀山社中】

高松 太郎(龍馬の甥)
出身 土佐
職名

坂本直は土佐藩出身の海援隊隊士です。坂本龍馬の甥であり、龍馬暗殺後は家督を継ぎました。幕末は高松太郎と名乗ります。
天保十三年に土佐藩の郷士、高松順蔵と母・千鶴(龍馬の実姉)の長男として生まれます。

19歳の時、九州に剣術修行の旅に出ます。旅先で武市半平太に出会ったことをきっかけに土佐勤王党に加盟して尊皇攘夷運動に身を投じるが、その後、叔父龍馬の紹介によって幕臣・勝海舟の弟子となります。神戸海軍操練所で航海術を習うが、八月十八日の政変の影響で土佐勤王党が弾圧されると、文久三年に脱藩しました。

その後、一時は薩摩藩に匿われるが、龍馬や陸奥宗光らと長崎で亀山社中(海援隊)を結成しました。王政復古後、函舘裁判所権判事として函館に赴任するが、旧幕府軍が函館に侵攻してくると清水谷公考総督らとともに青森に撤退します。維新後、宮内省に出仕したが早々に退職します。

明治四年八月、龍馬の家督を相続して朝廷から永世十五人扶持を給せられ、名を坂本直と改めます。晩年は弟坂本直寛宅に住みます。後にはキリスト教に帰依し、龍馬の暗殺犯とされる今井信郎を法要に招いたりもしています。明治三十一年病気のため57歳で死去しました。

高松 太郎(龍馬の甥)【海援隊士 幕末亀山社中】

目次

高松太郎の生きた時代—箱館府と北の戊辰戦争

箱館へ 龍馬の甥の高松太郎は、龍馬の死後、新政府に仕えて蝦夷地の箱館へ渡りました。慶応四年(1868)、新政府は箱館奉行所に代わる箱館府を置き、公家の清水谷公考を知事に任じます。高松はその役人として箱館に赴き、龍馬がかつて夢見た北の大地の開拓にかかわることになりました。

箱館戦争 ところがこの年の十月、榎本武揚の旧幕府軍が蝦夷地に上陸し、箱館府の人々は青森へ退きます。翌明治二年(1869)、新政府軍が箱館を取り戻し、戊辰戦争は終わりました。高松はその後、龍馬の跡(坂本龍馬家)を継いで坂本直と名のっています。

参考資料:Wikipedia日本語版「坂本直」「海援隊」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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龍馬の血を継ぐ海援隊士

高松太郎は、坂本龍馬の姉の子、すなわち龍馬の甥にあたる人物です。おじの龍馬を慕って早くから行動をともにし、亀山社中から海援隊へと続く活動を支えました。龍馬の身近にあって、その志を最もよく受け継いだ一人といえます。

坂本家を継ぐ

龍馬が近江屋で暗殺されたのち、高松太郎は坂本直(さかもとなお)と名を改め、龍馬の跡を継ぎました。維新後は新政府にも出仕しています。子を残さぬまま倒れた龍馬の名跡と志を、後世へつないだ血縁の隊士でした。

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継いだのは「坂本龍馬家」という新しい家でした

龍馬の跡を継いだと上に書きましたが、その中身は少し込み入っています。高知県立坂本龍馬記念館の説明によれば、この人が継いだのは代々の郷士坂本家ではなく、維新の功によって郷士坂本家とは別に一家を立てることを許された「坂本龍馬家」でした。つまり龍馬という個人の勲功に対して新しく作られた家を継いだことになります。明治四年八月、朝廷から永世十五人扶持を給されて坂本直と名を改めました。幕末には小野淳輔という名を使っています。

本家のほうは、北海道へ渡りました

もとの郷士坂本家のほうは、弟の直寛が継ぎました。この人はキリスト教に入り、自由民権運動に加わって、明治三十年に一族を率いて北海道へ移っています。土佐を引き払っての移住でした。兄が新しい「坂本龍馬家」を、弟が古い郷士坂本家を継いで、弟のほうが一族ごと北へ去ったという形になります。

宮内省を、信仰を理由に免じられています

維新後の歩みは、平坦ではありませんでした。慶応四年に箱館裁判所の権判事として蝦夷地へ赴き、そのあと東京府の典事、宮内省の雑掌から舎人へと進みます。ところがキリスト教を信じていることを理由に宮内省を免職になりました。弟の直寛も信者でしたから、兄弟そろって信仰の道に入っていたことになります。晩年は弟の家に同居し、明治三十一年十一月に五十七歳で亡くなりました。石田英吉や中島 作太郎(中島信行)が男爵になって貴族院に入ったのと比べると、龍馬の家を継いだ人がいちばん報われなかったようにも見えます。

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