佐々木 栄(三上栄太郎)【越前藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

佐々木 栄
出身 越前藩
職名

福井越前藩出身の海援隊士です。
越前藩が亀山社中に出資している関係上、松平春嶽侯より亀山社中へ出向させられた可能性が高いです。
その他詳細は不明です。

三上 太郎【越前藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

同じ名のページが、もう一つあります

当サイトには佐々木 栄というページがあり、同じ人として立てられています。ところが海援隊の顔ぶれを出自で調べた研究の表では、佐々木栄と三上栄太郎は別々に並んでおり、二人とも越前の出で身分は不明とされています。同じ人なのか別人なのか、決められませんでしたので、どちらのページも残したうえで相互に注記しておきます。なお海援隊には越前の出が五人おり、渡辺剛八・三上栄太郎・小谷耕蔵・腰越次郎・佐々木栄がその顔ぶれです。仮に佐々木栄と三上栄太郎が同じ人であれば、越前の出は四人ということになります。

参考資料:Wikipedia日本語版「佐々木栄」「海援隊」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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目次

「三上太郎」と「佐々木栄」について

この人物は、資料によって複数の名前で記録されています。福井藩大番組士・三上孫太夫の子で、前の名は三上栄太郎。ほかに「三上太郎」「三上三郎」という表記も確認できます。のちに佐々木栄と名乗りました。

改姓の経緯を記した資料は見つかっていません。また没年も不詳です。生年は弘化二年(1845年)とされます。

当サイトでは以前、記事の見出しを「三上太郎」、本文を「佐々木栄」として掲載していました。同一人物ですので、より一般的な「佐々木栄」に統一しました。

なお土佐藩出身の海援隊士に佐々木高行がいますが、まったくの別人です。

亀山社中と海援隊について

亀山社中は慶応元年、神戸海軍操練所の廃止で行き場を失った坂本龍馬ら二十余名が、薩摩藩の保護と長崎の豪商・小曽根家の援助を受けて長崎の亀山に置いた組織です。薩摩藩から一人あたり月三両二分が支給されていました。

ただし「亀山社中」という名称は当時のものではありません。同時代の史料に見えるのは「社中」という名乗りだけです。

慶応三年四月、龍馬の脱藩が赦免されて隊長となり、土佐藩に付属する外郭機関「海援隊」と改称しました。隊士の人数は資料により異なり、辞典類は約五十名としています。同時代の隊士名簿にあたる史料は確認されていません。

くわしくは海援隊士の一覧をご覧ください。

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亀山社中・海援隊の隊士一覧—龍馬がつくった「会社」に集まった人びと

別のページとは、同じ人とみてよさそうです

上に、同じ人なのか別人なのか決められないと書きましたが、その後の調べで一歩進みました。辞典類は佐々木栄を、越前福井藩の大番組士・三上孫太夫の子とし、「前名は三上栄太郎」と書いています。つまり三上栄太郎は佐々木栄のもとの名ということになり、二人は同じ人とみるのが自然です。海援隊の出自を調べた研究の表に別々に並んでいるのは、同じ人を二度数えた可能性が高いと思われます。当サイトでは、これまでどおり佐々木 栄のページも残し、互いに書き添えておきます。弘化二年の生まれで、勝海舟の神戸海軍操練所で学び、慶応三年二月に長崎へ出て海援隊に加わりました。

イカルス号事件で、疑いをかけられました

慶応三年七月六日の夜、長崎の丸山の寄合町で、英国軍艦イカルス号の水兵二人が斬り殺されました。その夜、土佐藩の船「横笛」が出港の手続きを整えないまま長崎を出ていったことから、疑いは海援隊に向きます。長崎奉行所の宿の記録に名があったとして挙げられたのが、菅野 覚兵衛と佐々木栄でした。英国公使パークスは土佐藩を強く責め、八月には英艦で土佐の須崎まで乗り込んで、藩船夕顔の船上で後藤象二郎と談判しています。坂本 龍馬も土佐から長崎へ戻って英国側との談判にあたり、隊士の嫌疑は証拠不十分として晴れました。

真犯人は、福岡藩士でした

本当に水兵を斬ったのは福岡藩士の金子才吉で、事件の二日後に自刃していました。福岡藩はこれを伏せていたため、海援隊は一年以上ものあいだ疑われたままだったことになります。犯人が判明した時期については、慶応四年九月の協議で明らかになったとするもの、明治元年十月とするもの、翌年八月とするものがあり、資料によって割れています。維新後の佐々木栄については、海軍の士官になった三上三郎がこの人ではないかと推し量られているだけで、確かなことは分かっていません。

亀山社中・海援隊のメンバー一覧(隊士五十四人) ›

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