間崎 専吉【土佐藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

間崎 専吉
出身 土佐藩
職名

土佐藩出身の海援隊士です。
間崎専吉は龍馬暗殺前後の海援隊員で詳しいことはわかっていません。

龍馬暗殺後の新隊長「長岡謙吉」を中心とした海援隊として同志十二人の中の一人です。
この一隊は旧幕領だった塩飽諸島と、小豆島東部の三か村を押さえています。

間崎専吉はその時のメンバーの一人で大半が土佐藩の出身者でした。
その後の海援隊は讃岐諸島の治安維持部隊となり、塩飽諸島の平定に赴きました。
塩飽の若者を集めて編成したのが梅花隊です。この隊はまもなく解散したのではなく、明治三年七月まで存続しました。

以降の間崎専吉についての詳細は不明です。

間崎 専吉【土佐藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

間崎哲馬との関わりは、わかっていません

土佐に間崎哲馬(滄浪)という勤王の学者がいます。土佐勤王党に連なり、文久三年に切腹を命じられた人です。同じ姓ですので間崎専吉との関わりを疑いたくなりますが、血のつながりも師弟の関係も、それを示す資料は一つも見つかりませんでした。姓が同じというだけで結びつけるわけにはいきません。

この人についても、資料が見つかりませんでした

間崎専吉の生まれた年も、亡くなった年も、出身も、そのあとどうなったのかもわかっていません。広く引かれる海援隊の隊士一覧にも、隊士の出自を調べた研究の表にも、この名はありません。当サイトが「同志十二人の中の一人」とする、その十二人という数についても、ほかの資料では確認できません。

名の残らなかった隊士たち

海援隊の名簿は一つに定まっていません。事典が挙げる人数はおよそ五十名、よく引かれる一覧は十五名ほど、隊士の出自を調べた研究の表は二十八名です。『海援隊約規』は「本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志のある者、この隊に入る」と定めており、脱藩者の集まりという性質上、誰がいつ入って抜けたかが書き留められにくかったのだろうと思われます。龍馬の死後に讃岐へ渡った顔ぶれには、間崎専吉のように名だけが伝わる人が何人もいます。

目次

間崎専吉の生きた時代—伊予松山の城を受け取る

土佐藩の兵 慶応四年(1868)正月、旧幕府側とされた伊予の伊予松山藩に対し、新政府は土佐藩に征討を命じました。土佐藩の兵が松山に入ると、松山藩は恭順して城を明け渡します。土佐藩は松山城をしばらく預かり、藩の領地を管理しました。

瀬戸内の土佐藩 この時期の土佐藩は、陸では松山へ、海では塩飽へと兵を出して、瀬戸内の治安を担いました。海援隊が塩飽を預かったのは、土佐藩が新政府のもとで西日本の秩序づくりを任されていたことを示しています。

参考資料:Wikipedia日本語版「海援隊」「亀山社中」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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龍馬の死後、海援隊は瀬戸内の島を占領していた—塩飽・小豆島の統治と梅花隊

「十二人」にはあって、「十三人」にはない名です

当サイトでは間崎専吉を、龍馬の死後に讃岐へ渡った「同志十二人」の一人としてきました。その十二人の顔ぶれは得能 猪熊のページに並んでいます。ところが、慶応四年四月十二日に土佐藩が讃岐の統治を命じた辞令に並ぶ十三人のなかには、この人の名がありません。十二人と十三人で半分ほどの名が重なり、字の違いも音の近いものが多いのですが、間崎専吉だけは辞令の側に対応しそうな名が見当たりませんでした。

ありうることを、並べておきます

辞令に名のない者が讃岐へ渡っていなかったとは限りません。中村 官兵衛は辞令の十三人に入っていないのに、塩飽の本島へ先に乗り込んだ一人として記録に残っています。辞令は藩が統治を任せた顔ぶれを示すもので、実際に島へ渡った者をすべて並べたものではなかったのでしょう。間崎専吉もそういう一人だったのか、あるいは十二人の名簿のほうに別の名が紛れ込んだのか、いまの手持ちでは決められません。

それでも、ページは残します

名前が一つの名簿にしか出てこない隊士は、海援隊には珍しくありません。森田 晋三のページに書いたとおり、隊士の数そのものが資料によって二十余名から五十余名まで開いています。確かめられないからといって消してしまうと、あとで裏づけが出てきたときに拾えなくなりますので、分からないことを分からないと書いて、このまま置いておきます。

亀山社中・海援隊のメンバー一覧(隊士五十四人) ›

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