小栗上野介忠順は「三河以来の旗本」と紹介されることがよくあります。では、小栗家はいつから徳川家に仕え、何石の家で、城を持っていたのでしょうか。そして、忠順が最後に身を寄せた権田村は、小栗家の知行のうちどれくらいを占めていたのでしょうか。この記事では、忠順より前の小栗家をたどります。
松平一族から分かれた家でした
江戸幕府がまとめた大名・旗本の系譜『寛政重修諸家譜』によると、三河の小栗家は、徳川家の前身である松平家の一族から出た家です。松平信広の流れをくむ小栗吉忠が、母方の祖父・小栗正重の養子となって小栗を名乗ったのが始まりとされています。
つまり小栗家は、もとをたどれば徳川と同じ松平の血筋でした。家紋の「丸に立波」は、群馬県高崎市の東善寺の寺紋にも使われています。
「又一」の名は、家康からもらったと伝わります
小栗家を旗本として確かなものにしたのが、吉忠の子・小栗忠政(1555〜1616)です。十三歳で徳川家康の小姓となり、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで奮戦しました。その後も戦のたびに一番槍をあげたため、家康から「又も一番槍か」という意味で「又一」の名をもらった、と伝えられています。
忠政は関ヶ原の戦い、大坂の陣にも加わり、大坂夏の陣で受けた鉄砲の傷がもとで、翌元和二年(1616年)に亡くなりました。「又一」の名は、このあと小栗家の当主が代々名乗る通称になり、幕末の忠順も家督を継いだときに「又一」を名乗っています。
戦国武将としての忠政については、姉妹サイト日本の歴史ガイドの「小栗忠政とは」でくわしく紹介しています。
なお、代の数え方には資料によって違いがあります。吉忠を初代とすれば忠政は二代、さらに前の代から数えて忠政を四代とする資料もあります。忠順を十二代とする点は、多くの資料で共通しています。
「三河以来」「安祥譜代」とはどういう意味か
小栗家は安祥譜代と呼ばれる家です。これは、松平家がまだ三河の安祥城(いまの愛知県安城市)を本拠にしていたころから仕えていた家、という意味で、譜代の中でもいちばん古い格にあたります。
勝海舟の勝家のように、あとから旗本の列に加わった家とは、ここが大きく違います。忠順が幕府の中で遠慮なく意見を言えたのは、才能だけでなく、この家柄の重みもあったと考えられます。
城は持っていませんでした
小栗家は大名ではなく旗本です。大名になるには一万石以上が必要で、小栗家はその四分の一ほどでしたから、城を持つことはありませんでした。当主は江戸の屋敷に住み、幕府の役に就いて働くのが仕事で、知行地の村々には代官や名主を通じて年貢を納めさせていました。
忠順の屋敷は、江戸・神田駿河台(いまの千代田区神田駿河台一丁目)にありました。
なお、茨城県筑西市には「小栗城」という城跡がありますが、これは常陸国の別の小栗氏(平氏の流れ)の城で、三河の旗本小栗家とは別の家です。
家禄は2,550石から始まり、幕末に2,700石へ
| 時期 | 当主 | 家禄 | できごと |
|---|---|---|---|
| 江戸時代のはじめ | 小栗忠政 | 2,550石 | 上野・武蔵・下総に知行を与えられる。うち武蔵国足立郡大成村が550石 |
| 宝永元年(1704年) | — | — | 上野国群馬郡権田村が小栗家の知行地になる(東善寺の寺伝) |
| 幕末 | 十一代・小栗忠高 | 2,500石 | 新潟奉行在任中の安政二年(1855年)に新潟で没 |
| 安政二年(1855年) | 十二代・小栗忠順 | 2,500石 | 家督を継ぐ |
| 万延元年(1860年) | 十二代・小栗忠順 | 2,700石 | 遣米使節の功で200石加増 |
江戸時代のはじめから幕末まで、小栗家の家禄は2,500石前後でほとんど変わっていません。知行を持つ旗本の平均は千石あまりとされるので、その倍以上の上級旗本です。知行地の村の入れ替えはあっても、家禄の高さは二百数十年ほぼ同じで、それが忠順の代に200石増えたことになります。
忠政のころの知行は、上野・武蔵・下総の三か国に分かれていました。幕末には上野・下野・上総・下総など七か所に知行地があったとされます。旗本の知行地は、一つの村にまとまっておらず、あちこちの村に分けて与えられるのが普通でした。
大成村と普門院——最初の知行地
忠政が与えられた知行地の一つ、武蔵国足立郡大成村(いまのさいたま市大宮区大成町)には、小栗家の菩提寺・普門院があります。境内には忠政とその一族、分家の墓など約三十基が並び、「大成領主小栗忠政一族の墓」としてさいたま市の史跡に指定されています。
さいたま市の説明によると、大成村は延宝元年(1673年)から明和五年(1768年)まではいったん幕府の直轄地となり、その後ふたたび小栗家の知行地に戻って、明治維新まで続きました。普門院には、忠順の首を葬ったと伝わる塚もあります。この塚については小栗上野介をしのぶ四つの場所で書いています。

権田村は375石——知行の七分の一ほど
忠順が慶応四年(1868年)に移り住んだ上野国群馬郡権田村(いまの群馬県高崎市倉渕町権田)は、宝永元年(1704年)に小栗家の知行地になったと、村の東善寺に伝わっています。

権田村の石高は375石でした。これは、国立国会図書館のレファレンス協同データベースに、市川光一『小栗上野介』と『角川日本地名大辞典』をもとにした回答として載っている数字です。2,700石のうちの375石ですから、七分の一ほどにあたります。
知行地の中でいちばん大きな村だったわけではありません。それでも、百六十年以上つながりの続いた村で、東善寺も小栗家の縁の深い寺でした。江戸を離れると決めた忠順が、七か所のうちから権田村を選んだのは、こうした長い縁があったからだと考えられます。権田村での日々は東善寺と小栗上野介の墓にまとめています。
分家と、小栗流和術
小栗家からは、いくつかの分家も出ています。忠政の子・小栗信由(仁右衛門)は、柔術の一派「小栗流和術」を開いた人として知られ、その家は七百石ほどの旗本として続きました。ほかにも五百石ほどの分家がいくつかありました。
本家の忠政の家が「又一」を名乗り続け、その十二代目が忠順です。
父・小栗忠高は中川家からの養子でした
忠順の父・小栗忠高は、もともと小栗家の生まれではありません。勘定奉行などをつとめた旗本・中川忠英の四男で、隣の屋敷に住んでいた小栗家十代・小栗忠清の娘の婿となり、家を継ぎました。
忠高は持筒頭などを経て、嘉永七年(1854年)に新潟奉行となりますが、翌安政二年(1855年)七月、任地の新潟で病のため亡くなりました。四十七歳でした。墓は新潟市の法音寺にあります。このとき二十九歳だった忠順が家督を継ぎます。
祖父の中川忠英は勘定奉行、父の忠高も遠国奉行という家の流れの中で、忠順はのちに勘定奉行を四度つとめることになります。
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この記事の情報源
ウィキペディア日本語版の小栗氏・小栗忠政・小栗忠高・小栗忠順の各項目(『寛政重修諸家譜』に拠る記述を含む)、さいたま市「大成領主小栗忠政一族の墓」、普門院「普門院と小栗家」、国立国会図書館レファレンス協同データベース「小栗上野介の知行地であった権田村の石高」、サライ.jp「小栗上野介は三河以来の『安祥譜代』」などをもとにまとめました。代の数え方や知行地の年代は資料によって異なる部分があり、本文ではその旨を記しています。

