この記事で紹介する小栗道子(みち)は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)に登場します。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
小栗忠順の妻は、播磨国林田藩主の娘・道子です。夫が斬られたとき、道子は数えで三十歳、身ごもって八か月ほどでした。その体で上州の山を越えて会津へ逃れ、戦火の中で女の子を産みます。小栗忠順のただ一人の子・国子です。2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、上白石萌音さんが「みち」として演じます。
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林田藩主・建部政醇の娘
道子は、播磨国林田藩(いまの兵庫県姫路市林田町)一万石の藩主・建部政醇の娘です。慶応四年(1868年)に三十歳ですから、生まれは天保十年(1839年)ごろになります。林田藩そのものについては林田藩/建部家にまとめました。
嘉永二年(1849年)、道子は小栗家に嫁ぎます。相手は家禄二千五百石の旗本の跡取り、のちの忠順です。大名の娘が旗本の家へ嫁ぐのは珍しいことではありませんが、小栗家にとっては家格の高い縁組でした。
子のない二十年と、迎えた養子
夫の忠順は、ペリー来航のあと異国船の警備にあたり、万延元年(1860年)には遣米使節の目付として太平洋を渡り、世界を一周して帰ってきます。その後は勘定奉行、軍艦奉行などをつとめ、横須賀製鉄所の建設に力を尽くしました(小栗忠順とは何をした人物か)。
夫婦のあいだには長く子がありませんでした。そこで小栗家は、母くにの姪にあたる鉞子を養女とし、その許婚として駒井家の次男・忠道を養子に迎えます。跡取りの形は整えられましたが、のちに道子が産む国子が、結局は小栗家をつなぐことになりました。家族の関係は小栗忠順の家族に書いています。
亀沢の別れ
慶応四年三月、一家は江戸を離れて上州権田村へ移ります。閏四月、忠順は新政府軍に捕らえられ、六日に水沼河原で斬られました。
家族は会津を目指して村を出ます。東善寺に伝わる話では、亀沢で夫との別れを悲しむ道子の嘆きは、その場にいた人々の涙を誘ったといいます。道中は過酷でした。山駕籠に乗り、駕籠が通れない道では草刈り籠に入って村人に背負われ、峠を越えていきました。守ったのは、中島三左衛門にひきいられた権田村の人たちです。経路と日付は小栗忠順の妻はどう会津へ落ちのびたのかに詳しく書きました。
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会津で国子を産む
閏四月二十八日、一行は会津若松に着き、会津藩の横山家を頼りました。六月十日、道子は南原の避難所(野戦病院とも伝わります)で女の子を産みます。国子と名づけられたこの子が、小栗忠順のただ一人の遺児です。父の死から二か月あまり、養子の忠道もすでに亡く、小栗の血を引く者はこの赤子だけになっていました。
やがて会津は戦場になります。一家は松川村で冬を越し、明治二年(1869年)の春、静岡を経て東京へ戻りました。
三野村と大隈に支えられた晩年
東京で一家を支えたのは、小栗に恩を受けた三井の大番頭・三野村利左衛門でした。利左衛門が亡くなったあとは、大隈重信と、その妻で忠順の従妹にあたる綾子が母子の面倒を見ています。
道子は明治十八年(1885年)三月二十七日に四十八歳で亡くなったと東善寺は伝えています(明治十九年とする紹介もあります)。墓は東京・豊島区の雑司ヶ谷霊園にあり、夫・忠順の名とともに刻まれています(小栗上野介をしのぶ四つの場所)。
娘の国子は大隈家に引き取られて育ち、のちに矢野龍溪の弟・貞夫を婿に迎えて小栗家を再興しました。国子は昭和四年(1929年)に亡くなっています。その歩みは小栗忠順の遺児はどう生きたかにまとめています。
大河『逆賊の幕臣』のみち
演じるのは上白石萌音さんです。忠順の母・くに(鈴木京香さん)らとともに、第三弾の出演者として発表されました。
大河のみちは、江戸で生まれ育った林田藩主の娘です。珍しい物や道具を好む父の影響か、物の形や寸法、由緒などを記録し、量距尺という物差しを持ち歩く、今でいう「オタク」として描かれます。同じく記録魔で道具好きの忠順とすっかり意気投合し、感情を表すのが苦手な夫のよき相談役になっていく、という人物像です。上白石さんは「オタクならではの鑑識眼で、夫の歩むべき『道』を照らす妻」を演じたいと話しています。
史料に残る道子は、夫を失い、身重で山を越え、ひとりの娘を育て上げた人です。ドラマが描く明るい若妻の姿が、その先に待つ慶応四年とどうつながっていくのかも見どころになりそうです。
▶ 大河『逆賊の幕臣』の登場人物を知る
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参考資料:Wikipedia日本語版「小栗忠順」、東善寺「小栗上野介忠順の略歴」「会津へ逃れた小栗上野介夫人」、気ままに江戸「小栗上野介夫人道子と遺児国子」、ステラnet・オリコンニュースの番組発表記事ほか。年齢は数え年です。

