新選組の組織と役職—局長・副長・組長・監察・勘定方・伍長、誰が何を務めたのか

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新選組は、ただの剣客の集まりではありませんでした。局長を頂点に、副長、組長、監察、勘定方、伍長と役目が分かれ、隊士の数が二百を超えるころには、一つの組織としてかなり整った形になっていました。この記事では、新選組の役職と、それぞれの役に就いた主な隊士をまとめます。

目次

命令の順番

隊の命令は、上から次の順に伝わりました。

  • 局長—隊の最高責任者
  • 副長—局長を助け、隊の実務を取り仕切る
  • 副長助勤(組長)—一つの組(隊)を率いる
  • 伍長—組長の下で数人の隊士をまとめる
  • 平隊士—役職のない一般の隊士

このほかに、局長・副長の直属として、隊士の監督や探索にあたる監察、お金を扱う勘定方、剣術などを教える師範が置かれていました。

局長・総長・副長・参謀

役職主な隊士ひとこと
局長近藤勇・芹沢鴨・新見錦はじめは芹沢・新見・近藤の三人が局長だったと考えられている(新見の局長就任を直接示す史料はなく、新見という人物については経歴そのものに異説もある)。新見はのちに副長に下げられ、芹沢の死後は近藤ひとりが局長に
総長山南敬助局長に次ぐ立場とされる。はじめは副長で、のちに総長。元治二年に切腹
副長土方歳三「鬼の副長」。隊の規律と実務を担った
参謀伊東甲子太郎元治元年に入隊し、参謀として迎えられた。のちに御陵衛士を結成して離脱

副長助勤(組長)—一番隊から十番隊

元治元年(1864)六月の池田屋事件のあと、同年十一月に隊は八組の小隊に編成され、翌慶応元年(1865)には十組になりました。各組の頭が副長助勤で、今日「一番隊組長」などと呼ばれる役です。各組の下には伍長が二人ずつ置かれたとされます。

組組長その後
一番隊沖田総司慶応四年に病没(没地には諸説)
二番隊永倉新八勝沼の敗戦後に隊を離れ、大正まで生きる
三番隊斎藤一会津に残って戦い、のちに警視庁へ
四番隊松原忠司柔術師範も兼ねた。慶応元年に死去
五番隊武田観柳斎軍学に通じた隊士。のちに隊を離れ、斬られる
六番隊井上源三郎試衛館以来の古参。鳥羽伏見で戦死
七番隊谷三十郎谷三兄弟の長兄。槍術師範
八番隊藤堂平助御陵衛士に加わり、油小路で斬られる
九番隊鈴木三樹三郎伊東甲子太郎の実弟。御陵衛士へ
十番隊原田左之助槍の名手。上野戦争で撃たれたとされる

組長の顔ぶれは時期によって入れ替わっており、この表は慶応元年ごろの編成としてよく知られるものです。副長助勤にはほかに尾形俊太郎・山崎烝・吉村貫一郎らの名も見えます。

諸士取調役兼監察—隊の目と耳

この役の名は、当サイトでは「諸士取調役兼監察」と書いています。ただし『行軍録』などの史料に見える書き方は「諸士調役兼監察」で、「取」が入りません。研究書や事典も「諸士調役」を使うことが多く、当サイトの表記は読みやすさを取った通用形です。ほかのサイトや本で「諸士調役兼監察」と書かれていても、同じ役のことだと思ってお読みください。

監察は、隊士の素行を見張り、市中の探索にあたる役でした。池田屋事件の手がかりをつかんだのも監察の働きです。隊の規律を守る役目でもあったため、切腹や粛清の場面にもしばしば関わっています。

勘定方—隊のお金

隊士の給金や屯所の経費を扱ったのが勘定方です。お金の扱いは厳しく問われ、勘定方の河合耆三郎は、慶応二年に切腹を命じられています(理由ははっきりしていません)。酒井兵庫も勘定方でした。

師範—剣術・柔術・槍術・砲術

隊には武芸の師範が置かれ、隊士に稽古をつけていました。撃剣師範には沖田総司・永倉新八・斎藤一らが名を連ね、柔術の松原忠司、槍術の谷三十郎・谷万太郎、馬術の安富才輔なども知られています。

伍長と平隊士

伍長は組長の下で数人の隊士をまとめる役で、葛山武八郎・富山弥兵衛・近藤芳助らが務めました。役職のない平隊士は、最も多い時期でおよそ百人いたとされます。隊全体の人数は、同時に在籍したのは最大でも二百三十人ほどですが、出入りが激しく、のべでは五百人を超える人が隊に名を残しています(隊士名簿はなぜ食い違うのか)。

幕臣への取り立てと給金

慶応三年(1867)六月、新選組の隊士は幕府に召し抱えられ、幕臣となりました。このとき近藤勇は見廻組与頭格、土方歳三は見廻組肝煎格、副長助勤は見廻組格などとされたといわれます。幕臣になることに反対した茨木司ら四人は、会津藩邸で自刃しました。

給金については、局長が月五十両、副長が四十両、副長助勤が三十両、平隊士が十両だったという話が伝わりますが、実際にはそれより少なかったとも考えられています。

組織から新選組を読み解く

隊を縛った五か条

新選組の規律として広く知られているのが、次の五か条です。

条中身
一士道に背くことをしてはならない
二局(隊)を抜けてはならない
三勝手に金策をしてはならない
四勝手に訴えごとを取り扱ってはならない
五私の争いをしてはならない

破った者は切腹とされました。ただ、この五か条を「局中法度」と呼んで紹介したのは、昭和のはじめの子母澤寛『新選組始末記』です。当時の隊の中で、この形の条文がどこまで示されていたのかははっきりしません。それでも、脱走した山南敬助や柴田彦三郎、金の問題で死んだ河合耆三郎の例を見れば、ここに書かれたような掟が実際に隊士を縛っていたことは確かです。処断の例は新選組の切腹・粛清一覧にまとめています。

監察の多くが、御陵衛士へ移った

隊士の動きを見張る諸士取調役兼監察は、局長・副長の「目と耳」でした。ところが、この監察を務めた人々の顔ぶれを見ると、意外なことに気づきます。

監察を務めた隊士その後
篠原泰之進・服部武雄・毛内有之助・新井忠雄伊東甲子太郎とともに御陵衛士となって隊を離れる
山崎烝・島田魁・尾関雅次郎・大石鍬次郎新選組に残る

隊の内側を見張る役を任された人のうち、少なくない数が伊東の一派でした。伊東とともに江戸から入った人々は学識があり、隊の中でも重く用いられていたのです。監察という隊のいちばん奥深くを知る役から、多くの人が隊を去っていったことは、慶応三年の分裂が新選組にとってどれほど大きな打撃だったかを物語っています。

役職は「出世の階段」でもあった

新選組の役職は、隊士にとって出世の道筋でもありました。隊士ページから、役職の移り変わりが分かる人を拾ってみます。

隊士役職の移り変わり
安富才輔伍長 → 監察 → 勘定方・馬術師範 → 会津で副長役 → 箱館で陸軍奉行添役
久米部正親伍長 → 会津で軍目付
尾形俊太郎副長助勤 → 五番組の組頭 → 監察・文学師範
近藤芳助平隊士 → 伍長

農民や町人の出の者でも、働きしだいで役を上がり、慶応三年の幕臣取り立てでは幕府の家臣の身分まで手にすることができました。身分の壁が厚かった江戸時代にあって、新選組は腕と働きで上を目指せる、珍しい場所でもあったのです。厳しい掟と、出世の見込み。その二つが、数百人の隊士を一つにまとめていました。

箱館での新選組の組織

戊辰戦争のなかで隊の形は大きく変わりました。箱館では、土方歳三が陸軍奉行並という上の役に就き、新選組は頭取改役の森常吉らが率いて、いくつかの分隊に分けられました(箱館の新選組)。

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参考にした資料:永倉新八『新撰組顛末記』、子母澤寛『新選組始末記』、新選組研究の諸資料。組長の顔ぶれや幕臣としての格、給金には記録による違いがあります。

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