| 谷三十郎 | |||
| 職名 | 七番隊隊長 | ||
| 出身 | 備中松山 | ||
| 終焉場所 | 京都 | ||
| 終焉方法 | 急死 | ||
谷三兄弟の長男で新選組の募集に応じて入隊し7番隊隊長となります。
禁門の変の残党狩りで活躍します。
弟周平を近藤の養子にして権勢をはったが急死します。
粗暴な振る舞いが多かった為暗殺されたとも言われています。

種田流槍術の七番隊組長
谷三十郎は、種田流の槍術を修めた武芸者で、新選組では七番隊組長を務めました。備中松山の出身と伝えられ、弟の谷万太郎らとともに一族で新選組に加わっています。槍の腕を買われ、隊の武術指南にも関わったとされます。
祇園での変死
しかし1866年(慶応二年)、谷三十郎は京都・祇園社の付近で変死体となって発見されました。その死因ははっきりせず、暗殺されたとも病によるものともいわれ、真相は謎のままです。隊内の複雑な人間関係をうかがわせる、幕末の京都らしい不可解な最期でした。
届出には「頓死」とあります
慶応二年四月一日、谷三十郎は祇園社の石段下で死にました。このとき新選組から出された届けは「祇園石段下に於て頓死相遂げ候」というもので、同じ時代の記録では急死と書かれており、暗殺とはされていません。この記事が「暗殺されたとも言われています」とするのは、のちに出てきた説です。
暗殺説の出どころ
斎藤一が近藤勇の命で斬ったという説は、御陵衛士だった篠原泰之進が明治になって語ったものです。ただし篠原自身が続けて、斎藤が斬ったという確かな証しはない、案外つまらない浪士に斬られたのかもしれない、とも述べています。検分のときに篠原が斎藤へ「左からの突きはお前の得意技と同じだな」と言ったという有名な場面は、昭和になってから子母澤寛が書いたもので、同じ時代の史料ではありません。
槍か、剣か
種田流の槍術師範だったというのが通説ですが、子孫に伝わる話では剣術一筋で神明流の指南役だったといい、食い違います。弟の万太郎と混同されている見込みも指摘されています。役職は元治元年六月に副長助勤、同じ年の十二月に八番組長、慶応元年四月に七番組組長と槍術師範へと移りました。
三兄弟のその後
弟の谷万太郎は天保五年十二月三日の生まれ、明治十九年六月三十日に亡くなりました。慶応元年正月のぜんざい屋事件では、兄や阿部十郎らとともに、大坂の焼き討ちを企てた土佐勤王党の大利鼎吉を討っています。維新後は大坂で町道場を開きましたが、経営に行き詰まって商家の用心棒をして暮らしました。もう一人の弟の周平は嘉永元年五月二十日の生まれで、近藤勇の養子となって近藤周平と名のり、池田屋事件のあとに褒美の十五両を受けています。三十郎が死ぬと養子の縁を解いて谷の姓に戻り、明治五年に大阪府の巡査となったものの翌年には辞め、山陽鉄道の神戸事務所の下級の職員として暮らしました。明治三十四年十二月二日に亡くなっています。
新選組の役職と、それぞれを務めた隊士は、新選組の組織と役職—局長・副長・組長・監察・勘定方・伍長、誰が何を務めたのかにまとめています。
新選組の隊士たちが学んだ流派は、新選組隊士の剣術流派—天然理心流・神道無念流・北辰一刀流、誰が何を学んだのかにまとめています。
谷三十郎の生きた時代—故郷の藩主は老中だった
備中松山藩の出身 谷三十郎は備中松山藩(板倉家五万石)の出身です。谷が新選組で七番隊の組長を務めていたころ、故郷の藩主・板倉勝静は幕府の老中として、のちには老中首座として将軍を支えていました。藩の財政は、儒学者・山田方谷の改革で立て直されていました。
幕府とともに 備中松山藩は戊辰戦争で旧幕府側に立ち、勝静は箱館まで渡りました。谷自身は慶応二年(1866)に京都で急死していますが、故郷の藩もまた、新選組と同じく幕府とともに最後まで歩んだことになります。
七番組長・谷三十郎と、その時代の幹部
槍の名手が率いた七番組
谷三十郎は、種田流の槍術の使い手として知られ、新選組が十の組に分けられたとき七番組の組長となりました。弟の谷万太郎、末の弟の昌武(のちの近藤周平)とともに隊に加わり、周平は一時、近藤勇の養子となっています。慶応元年ごろの幹部の顔ぶれは次のとおりです。
- 局長:近藤勇
- 副長:土方歳三
- 総長:山南敬助(慶応元年二月に切腹)
- 参謀:伊東甲子太郎
- 一番組:沖田総司/二番組:永倉新八/三番組:斎藤一
- 四番組:松原忠司/五番組:武田観柳斎/六番組:井上源三郎
- 七番組:谷三十郎/八番組:藤堂平助/九番組:鈴木三樹三郎/十番組:原田左之助
備中松山藩の戊辰戦争
谷の故郷・備中松山藩の藩主・板倉勝静は、老中首座として最後まで将軍慶喜を支えました。鳥羽伏見の戦いののち、勝静は慶喜とともに江戸へ下り、さらに奥羽・箱館へと転戦します。一方、国元の松山藩は朝敵とされ、藩の政治を担っていた山田方谷らの判断で、戦わずに城を明け渡しました。
参考資料:Wikipedia日本語版「谷三十郎」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:井上源三郎(六番隊隊長)
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新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)
出身地の城には、三十郎にちなんで名づけられた猫城主がいます。備中松山城とはをご覧ください。



