| 久米部正親 | |||
| 職名 | 軍目付 | ||
| 出身 | 摂津大坂 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||
久米部正親をもっと深く—如来堂を生き延び、明治四十三年まで生きた伍長
鳥羽伏見で傷を負い、会津で隊が散り散りになるまで戦い抜いた隊士です。
大坂の出、伍長から軍目付へ
天保十二年、摂津国大坂の出身です。元治元年に新選組に入り、伍長を務めました。
鳥羽伏見、甲州、そして会津
慶応四年の鳥羽伏見の戦いで負傷しながらも、甲州勝沼の戦いに加わります。会津では軍目付を務めましたが、斎藤一らとともに守っていた如来堂を新政府軍に襲われ、隊は散り散りになりました。
銚子で降伏
その後、同年十月に銚子で降伏しています。明治以降は猪野忠敬と名を改め、明治四十三年九月二十五日に亡くなりました。
久米部正親の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天保十二年(1841)四月十七日 | 摂津国大坂に生まれる |
| 元治元年(1864) | 新選組に入る。のちに伍長 |
| 慶応四年(1868)一月 | 鳥羽・伏見の戦いで負傷する |
| 慶応四年三月 | 甲州勝沼の戦い(甲陽鎮撫隊)に加わる |
| 慶応四年 | 会津で軍目付を務める |
| 慶応四年九月 | 斎藤一らと守る如来堂を新政府軍に襲われ、敗走する |
| 明治元年(1868)十月 | 銚子で降伏する |
| 明治以降 | 猪野忠敬と名を改める |
| 明治四十三年(1910)九月二十五日 | 死去。数えで七十歳 |
久米部正親を読み解く
伍長と軍目付
伍長は、組長の下で数人の平隊士をまとめる、いわば現場の班長です。一方の軍目付は、戦場で味方の働きを見届け、手柄や落ち度を記録する役です。京都の市中見回りでは伍長として隊士を率い、戊辰戦争では戦いぶりを見定める役に回ったことになります。戦いの経験を積んだ古参として信頼されていたことがうかがえます。
如来堂の戦いとは
土方歳三が会津を離れて仙台へ向かったあとも、斎藤一らは会津に残って戦いました。そのとき守っていたのが、会津若松の城下に近い如来堂です。新政府軍の攻撃を受けて、守っていた隊士の多くが討ち死にし、生き残った者も散り散りになりました。久米部はこの戦いを生き延びた数少ない一人です。如来堂を含む会津での戦いは会津の新選組にまとめています。
なぜ銚子で降伏したのか
如来堂は会津、降伏した銚子はいまの千葉県です。敗走してから一か月ほどのあいだに、久米部がどんな道筋で関東の海辺までたどり着いたのかは、記録がありません。仙台や海路に向かおうとした旧幕府方の動きと関わりがあったのかもしれませんが、確かなことは分かっていません。
明治を長く生きた隊士
明治四十三年まで生きた隊士は多くありません。鳥羽伏見から会津まで戦い抜いた久米部は、新選組の戦いの後半を自分の目で見た証人の一人でした。ただ、明治に入ってからの猪野忠敬としての暮らしぶりは、ほとんど伝わっていません。
久米部正親の足どりをさらに掘り下げる
鳥羽伏見の負傷者はどう運ばれたか
慶応四年正月、鳥羽伏見で敗れた新選組は大坂へ退き、幕府の軍艦で海路江戸へ向かいました。負傷した隊士の多くは富士山丸に乗せられ、船中で亡くなった者もいます。山崎烝が船上で没し、海に葬られたと伝えられるのもこの航海です。
江戸に着いた負傷者は、医師のもとで手当てを受けました。久米部も傷を負っていたにもかかわらず、わずかひと月あまりのちの三月には甲州勝沼へ出陣しています。回復を待たずに戦場へ戻ったのか、傷が比較的軽かったのかは分かりませんが、いずれにしても休む間のない日々だったことは確かです。鳥羽伏見での新選組の動きは鳥羽伏見の戦いと新選組にまとめています。
上方の出の隊士が、最後まで残った
新選組の古参といえば、近藤勇の試衛館にいた多摩や江戸の人たちがまず思い浮かびます。ところが実際には、京都・大坂で入隊した上方の隊士も数多くいました。久米部は大坂の出で、元治元年に入隊した人です。
江戸へ下ってからの新選組では、上方で入った隊士の多くが去っていきました。故郷から遠く離れ、戦況も悪くなる一方だったのですから、無理もありません。そのなかで久米部は、甲州、会津と転戦を続けています。出身ではなく、隊とともに過ごした年月が、彼を最後まで引き留めたのかもしれません。
「軍目付」という役が意味すること
会津で久米部が務めた軍目付は、戦場での味方の働きや落ち度を見届ける役でした。戦いが終わったあと、誰がどう戦ったかを報告するのが仕事です。言いかえれば、隊の内側を公平に見ることのできる人物と見なされていたということになります。京都時代の伍長から、会津での軍目付へ。役職の移り変わりからは、久米部が隊のなかで重みを増していった様子が読み取れます。役職の仕組みは新選組の組織と役職で整理しています。
名を改めて生きた四十年
降伏から亡くなるまで、久米部には四十年あまりの時間がありました。猪野忠敬と名を改めたのは、旧幕府方として戦った過去から距離を置くためだったのか、家の事情によるものなのか、理由は伝わっていません。明治の新選組の生き残りのなかには、永倉新八や島田魁のように回想や日記を残した人もいますが、久米部の言葉はほとんど残っていません。語らなかったこと、語る場がなかったことも、生き残った隊士の一つの姿でした。
久米部正親と関わりの深い人たち
久米部正親のゆかりの地
- 如来堂(福島県会津若松市神指町)—新政府軍に襲われた場所。
- 母成峠古戦場—会津での戦いの地。
- 銚子(千葉県銚子市)—降伏した場所。
参考にした資料:新選組の名簿類、Wikipedia「久米部正親」。
会津での新選組の戦いと、土方・斎藤の別れについては、会津の新選組—宇都宮・白河口・母成峠・如来堂、土方と斎藤が別れた夏にまとめています。
鳥羽伏見の戦いでの新選組については、鳥羽伏見の戦いと新選組—伏見奉行所、淀千両松、そして江戸へにまとめています。
名と、明治のあとさき
この人の名は「粂部正親」と書かれることもあります。明治になって猪野忠敬と改めた点については、そもそも猪野が本姓で、新しい名を付けたのではなく元の姓に戻ったのだという見方もあります。
また、明治以降の足取りについて、兵部省の降伏人の隊に応募して陸軍の少尉となり、西南戦争には中尉として従い、明治十三年に大阪鎮台の副官、退官後は絵を教えて暮らしたという記述があります。ただしこれを記すのは個人の調査によるもので、一次の史料で確かめられてはいません。銚子で降伏する前、仲間を説くときに「八丈島へ渡って島を開き、独立した国を建てよう」と唱えたという逸話も伝わりますが、これも同じ性質の話として読んでおくのが安全です。
新選組をもっと知る本
如来堂を生き延び、明治四十三年まで生きた久米部のような隊士は、後年の証言で足取りがつながります。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は、そうした証言がどう集められたかを知る二冊です。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:楠小十郎(平隊士)
次の隊士 ▶:近藤周平(諸士取調役兼監察)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

