伊東甲子太郎【新選組隊士 参謀 幕末】

伊東甲子太郎
職名 参謀
出身 常陸
終焉場所 京都油小路
終焉方法 暗殺

北辰一刀流伊東道場に入門しその門を継ぐ文武両道の人物です。その後藤堂平助を会して門人約15人を引き連れて新選組に入隊し参謀となります。新選組の勤皇化を目指したがうまくいかず、後に脱退して御陵衛士を結成します。それを良しとしない近藤一派の騙まし討ちあい京都油小路にて惨殺されます。養子端麗文武離両道の人物でした。

河原町の「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」の碑(近江屋跡、京都市中京区)
河原町の「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」の碑(近江屋跡、京都市中京区)(現地取材の記事・筆者撮影)
伊東甲子太郎の肖像画
伊東甲子太郎の肖像画(Wikimedia Commons、パブリックドメイン)
目次

伊東甲子太郎をもっと深く—辞世として広まっている歌は、別人のものです

先に注意をひとつ。

伊東甲子太郎の辞世として「君が為 尽くす心は水の泡 消えにし後は澄み渡る空」という歌が流布することがあります。これは土佐の岡田以蔵の辞世で、伊東のものではありません。

では伊東の辞世は何か。史料に残る確実な辞世は、わかっていません。主要な事典にも「辞世」の項目がありません。

その代わり、歌人としての伊東は確かに残っています。山南敬助の切腹に際して詠んだ四首、そして島原の花香太夫を詠んだ恋の和歌三首。「逢ふまでと せめて命が惜しければ 恋こそ人の命なりけり」—堀河右大臣の本歌取りです。

入隊と同時に「参謀」という異例

常陸国志筑—いまの茨城県かすみがうら市の生まれ。志筑藩士・鈴木専右衛門の長男です。父が家老と対立したため一家は藩を追われ、家は断絶したと伝わります。

水戸に遊学して水戸学・国学・儒学を修め、江戸深川の北辰一刀流「伊東道場」に入って道場主に見込まれ婿養子となり、道場を継ぎました。(道場主の名と身分は資料で割れています。)

元治元年十月、藤堂平助の仲介で新選組に加盟します。藤堂は伊東道場の寄り弟子でした。上洛した元治元年が甲子の年だったので「甲子太郎」と改名しています。

そして与えられた役が「参謀 兼 文学師範」。ここが異例です。

新選組は組長からの叩き上げが原則で、沖田総司も斎藤一もそうやって上がっています。入隊と同時に局長・副長に次ぐ地位に据えられたのは、この人だけです。

理由ははっきりしています。容姿端麗、弁舌巧み、水戸学の学識。当時の新選組に決定的に欠けていた「思想と交渉力」の要員でした。

御陵衛士—名分と、実際にやっていたこと

慶応三年三月、新選組から分離します。名目は二本立てでした。

  • 泉涌寺塔頭・戒光寺の長老の仲介で、孝明天皇の御陵を守護する任を拝命した
  • それに伴い、薩摩・長州の動向を探る

二つ目があるので、幕府側にも分離を認めさせられる理屈になっています。屯所は東山・高台寺塔頭の月真院。ここから「高台寺党」と呼ばれました。

ただし陵墓の警備は名分で、伊東の関心は朝廷への政治工作にありました。慶応三年に建白書を四通提出しています。大政奉還直後の三通目の中身が具体的です—公家中心の新政府/広く天下から人材を求める/畿内五か国を新政府直轄領とする/国民皆兵。

「薩摩に内通していた」という話について

よく言われますが、伊東と薩摩が連絡を取った証拠は皆無に等しく、しかも建白書の内容は薩摩の武力倒幕論とまったく違います。公議政体論です。

近藤と対立したのは事実ですが、内通していたから斬られた、という筋書きは成り立ちにくいところです。

慶応三年十一月十八日、油小路

時系列を押さえておきます。坂本龍馬が近江屋で暗殺されたのが十一月十五日。そのわずか三日後です。

近藤勇が「資金の用立てと国事の相談がある」と言って伊東を招き、七条・醒ヶ井通の妾宅で酒宴を張って泥酔させました。

帰り道、七条油小路の木津屋橋付近で待ち伏せ。実行者は大石鍬次郎・横倉甚五郎・宮川信吉・岸嶋芳太郎の四名とされます。伊東は一太刀返したうえで「奸賊ばら」と叫んで絶命しました。場所は本光寺の門前です。

そして新選組は遺体を油小路七条の辻に放置し、周囲に伏せて御陵衛士をおびき寄せました。引き取りに来た七名のうち、藤堂平助・服部武雄・毛内有之助の三名が討死しています。

弟は、明治の警察署長になりました

実弟の鈴木三樹三郎は二歳下。兄と同じく藤堂平助の勧誘で入隊し、慶応元年に九番隊組長になりました。

油小路では兄の遺体収容に向かい、乱闘を切り抜けて薩摩藩邸へ脱出します。そして慶応三年十二月十八日、墨染で近藤勇を銃撃したのが、この鈴木三樹三郎ら八名でした。兄の報復です。この負傷のせいで、近藤は鳥羽・伏見で指揮を執れませんでした。

その後は赤報隊二番隊長、北越・会津を転戦。維新後は司法省に入り、明治十二年に鶴岡警察署長。大正八年まで生きました。

新選組九番隊組長が、明治の警察署長になっています。

孝明天皇陵のそばに眠っています

墓は泉涌寺塔頭・戒光寺。毛内・藤堂・服部と四基並んでいます。慶応四年に鈴木三樹三郎らが改葬し、墓碑が建ったのは明治二年。石香炉と手水場は、毛内の出身地である弘前藩から供えられたものです。

そしてこの寺の域内には、孝明天皇の眠る後月輪東山陵があります。御陵衛士という名乗りが、死後に文字どおり実現しました。

大正七年に従五位を追贈され、昭和四年に靖国神社へ合祀されています。

新選組隊士全456名情報

新選組隊士の一覧を見る ›

新選組の理論派・参謀

伊東甲子太郎は、北辰一刀流の剣と豊かな学識をあわせ持ち、弁も立つ人物で、新選組に加わると参謀・文学師範として重んじられました。しかし彼は強い尊皇攘夷の思想の持ち主であり、佐幕の立場をとる近藤・土方らとは、根本の政治思想において相いれないものを抱えていました。

御陵衛士の結成と油小路事件

やがて伊東は、同志を率いて新選組を離れ、孝明天皇の陵を守る名目で御陵衛士(高台寺党)を結成します。両者の対立は深まり、1867年(慶応三年)、伊東は謀られて新選組側に暗殺されました。その遺体を囮に、駆けつけた同志たちも討たれた油小路事件は、幕末の思想対立が生んだ凄惨な同士討ちとして知られています。

この隊士が関わった油小路事件については、油小路事件とは—伊東甲子太郎と御陵衛士が斬られた夜で詳しくまとめています。

新選組の役職と、それぞれを務めた隊士は、新選組の組織と役職—局長・副長・組長・監察・勘定方・伍長、誰が何を務めたのかにまとめています。

新選組の隊士たちが学んだ流派は、新選組隊士の剣術流派—天然理心流・神道無念流・北辰一刀流、誰が何を学んだのかにまとめています。

御陵衛士の顔ぶれと、油小路のあと

伊東とともに隊を離れた人びと

慶応三年三月、伊東甲子太郎は同志十数名とともに新選組を離れ、孝明天皇の御陵を守る御陵衛士を結成しました。屯所は、東山の高台寺の塔頭・月真院に置かれています。主な顔ぶれは次のとおりです。

  • 伊東甲子太郎(盟主)
  • 鈴木三樹三郎(伊東の弟)
  • 藤堂平助(元八番組長)
  • 篠原泰之進、服部武雄、毛内有之助、加納鷲雄、富山弥兵衛
  • 新井忠雄、阿部十郎、内海次郎 ほか
  • 斎藤一(のちに新選組へ戻り、間者だったともいわれる)

生き残った衛士たち

十一月十八日の油小路の事件で、伊東のほか、藤堂平助・服部武雄・毛内有之助が命を落としました。逃れた鈴木三樹三郎・篠原泰之進・加納鷲雄・富山弥兵衛らは薩摩藩邸に身を寄せ、十二月十八日には、伏見街道の墨染で近藤勇を狙撃しています。翌年の戊辰戦争では、彼らは新政府軍の側で戦いました。流山で投降した近藤の正体を見破ったのは、元御陵衛士の加納鷲雄だったと伝わります。

参考資料:Wikipedia日本語版「伊東甲子太郎」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

✎ 筆者のひとこと

学問も剣もできる人が新選組に入り、考えの違いから離れていきました。

実は私はけっこう好きな人物です。ただ、策士策に溺れるところがあり、自己評価も高かった。泥沼の中を泥くさく生き抜いてきた近藤や土方には、策略ではまったく及ばなかったのだろうと思います。

あわせて読みたい(現地取材)

  • URLをコピーしました!
目次