葛山武八郎【新選組隊士 伍長 幕末】

京都の寺の墓碑に供えられた白菊と線香
葛山武八郎
職名 伍長
出身 会津(とされる)
終焉場所 京都
終焉方法 切腹
伍長として池田屋事件で働き、褒賞を受けました。 永倉新八らとともに近藤勇の非行を会津藩に訴えます。 建白に加わった六人のうち、ただ一人切腹しました。
目次

葛山武八郎をもっと深く—局長を訴えた六人のうち、ただ一人切腹した伍長

近藤勇の非行を会津藩に訴えた六人の中で、ただ一人、命を落とした隊士です。

虚無僧だったという前歴

会津藩の出身とされ、新選組に入る前は虚無僧をしていたともいわれます。伍長を務め、元治元年六月の池田屋事件ではよく働いて褒賞金十七両を受けました。

非行五か条の建白

池田屋のあと、近藤の振る舞いを増長と見た永倉新八・原田左之助・斎藤一・島田魁・尾関雅次郎、そして葛山の六人は、近藤の非行を五か条にまとめた建白書を会津藩主・松平容保に出しました。容保のとりなしで事は収まったはずでした。

元治元年九月、切腹

ところが元治元年九月六日、葛山は切腹します。最後まで強く抗議し続けたための死だったとも、建白の責任を一人に負わされた見せしめだったともいわれ、はっきりしたことは分かっていません。ほかの五人が謹慎で済んだなかで、葛山だけが命を落としました。

葛山武八郎の歩みを年表で

年できごと
生年不詳会津藩の出身とされる。入隊前は虚無僧をしていたとも伝わる
文久三年〜元治元年ごろ新選組に入り、伍長になる
元治元年(1864)六月五日池田屋事件。のちに褒賞金十七両を受ける
元治元年七月禁門の変に出動する
元治元年永倉新八ら五人とともに、近藤勇の非行五か条を会津藩主・松平容保に訴える
元治元年九月六日切腹する

葛山武八郎を読み解く

会津の出身者が、会津藩に訴えた

新選組は、会津藩主で京都守護職の松平容保の預かりという立場でした。隊士が局長を訴え出る先も、その会津藩です。葛山が会津の出身だったとすれば、六人の中で会津藩とのつながりがいちばん深かった人ということになります。建白書を会津藩に届ける段取りに、葛山の縁が役立ったのではないかとも考えられますが、それを確かめる記録はありません。

なぜ葛山だけだったのか

建白に名を連ねた六人のうち、永倉新八・原田左之助・斎藤一は副長助勤、島田魁と尾関雅次郎も古くからの隊士でした。葛山は伍長で、六人の中では立場がいちばん低かったと見られます。隊の中心にいる助勤たちを罰すれば隊が割れます。責任を立場の弱い一人に負わせて、ほかの五人を不問にした、という見せしめ説は、この顔ぶれを見るとうなずけるところがあります。一方で、葛山が最後まで引き下がらなかったから、という説もあり、どちらが本当かは分かりません。

わずか三か月の出来事

池田屋事件は元治元年六月五日、葛山の切腹は九月六日です。そのあいだに七月の禁門の変があり、新選組は大きく名を上げました。手柄を立てて褒賞金を受けた隊士が、三か月後には切腹している。新選組が急に大きくなるなかで、隊の中のまとまりをどう保つかが、近藤や土方にとって大きな問題になっていたことが分かります。建白の顛末は、建白した一人である尾関雅次郎のページでも触れています。

はっきりしないこと

葛山の生年、会津藩のどのような家の出だったのか、虚無僧をしていたという話の真偽は、いずれも確かめられていません。切腹の理由も、はっきり書き残した記録はありません。新選組で切腹や粛清によって亡くなった隊士は新選組の切腹・粛清一覧にまとめています。

葛山武八郎の死をさらに掘り下げる

池田屋から切腹まで、三か月

葛山の最後の三か月を並べてみると、その死がどれほど急な流れの中にあったかが分かります。

元治元年できごと
六月五日池田屋事件。葛山は伍長として働き、のちに褒賞を受ける
七月十九日禁門の変。新選組も出動する
八月ごろ永倉新八らと六人で、近藤勇の非行を会津藩に訴える
九月六日葛山、切腹
九月近藤勇、隊士募集のため江戸へ向かう

池田屋と禁門の変の働きで、新選組の名は一気に高まりました。近藤が多くの隊士を集めようと江戸へ下ったのも、その勢いを受けてのことです。建白書が出されたのは、隊がまさに大きくなろうとしている時期でした。隊の外に向けて名を上げたその同じ年に、隊の内側では局長への不満が噴き出し、その責めを一人の伍長が命で負ったことになります。

建白書は何を訴えたのか

永倉新八の回想によれば、六人が訴えたのは、近藤が同志であるはずの隊士を自分の家来のように扱い、わがままな振る舞いが目立つようになったということでした。壬生浪士組は、もともと志を同じくする浪士が対等に集まったものです。池田屋の手柄で名を上げた近藤が、局長として上から命じる立場を強めていくことに、古くからの隊士たちは強く反発したのです。

この建白の構図は、新選組が「同志の集まり」から「上下のはっきりした組織」へと変わっていく、ちょうどその変わり目を示しています。会津藩主・松平容保がとりなしたことで表向きは収まりましたが、組織の形が変わる流れそのものは止まりませんでした。翌年には屯所が西本願寺に移り、隊はさらに大きく、厳しい組織になっていきます。

虚無僧という前歴の意味

葛山は入隊前に虚無僧をしていたと伝わります。虚無僧は、深い編み笠をかぶって顔を隠し、尺八を吹きながら諸国をめぐる僧です。顔を見せずに旅ができるため、江戸時代には浪人が身を寄せたり、身元を隠して動く者が姿を借りたりすることもありました。

武士としての居場所を失った者が、虚無僧となって世を渡り、やがて新選組で伍長になる。葛山の前歴が本当なら、それは幕末に行き場を探していた多くの浪人の姿と重なります。そうして手に入れた居場所で、局長に意見したことが命取りになったのだとすれば、あまりに皮肉な結末です。ほかの五人のその後は尾関雅次郎のページで一覧にしています。

葛山武八郎と関わりの深い人たち

葛山武八郎のゆかりの地

参考にした資料:永倉新八『新撰組顛末記』、新選組の褒賞記録。

池田屋事件の夜に出動した隊士の顔ぶれは、池田屋事件に出動した新選組隊士—近藤隊の十人と、駆けつけた土方隊・井上隊にまとめています。

新選組と会津藩の関わりは、新選組と会津藩—京都守護職・松平容保の「お預かり」から、会津での最後の戦いまでにまとめています。

十七両という額

池田屋事件のあと、幕府と会津藩から新選組に下された恩賞は合わせて六百両でした。これが隊士に配られたとき、近藤勇が三十両、土方歳三が二十三両、沖田や永倉ら幹部が二十両、そして葛山は十七両を受けています。井上源三郎・斎藤一・原田左之助・島田魁らと同じ額です。つまり葛山は、池田屋の時点では幹部に次ぐ働きをした隊士として扱われていました。

その葛山が、三か月ほどのちに腹を切ることになります。褒賞の名簿と処断の記録の間隔が、この短さです。なお壬生寺の隊士の合祀墓には「葛山武八良」と刻まれており、名の字が記事の表記と異なります。はじめ光縁寺に葬られ、のちに壬生寺の墓碑に名が刻まれたと伝わります。池田屋のときに隊へ下された感状そのものは、いまも京都の霊山歴史館に残っています。

新選組をもっと知る本

葛山の切腹は、経緯も日付も資料によって食い違います。永倉新八『新撰組顛末記』のような当事者の証言と、昭和の初めの聞き書きである子母澤寛『新選組始末記』を突き合わせるしかない例です。

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