| 新井忠雄 | |||
| 職名 | 諸士取調役兼監察 | ||
| 出身 | 奥州岩城 | ||
| 終焉場所 | 東京 | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||
慶応元年に入隊しました。
慶応三年脱退し御陵衛士となります。
鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍に参加しその後赤報隊に加わります。
維新後は司法省に出仕し明治十九年に退官。
その後東京で死去しました。
新井忠雄をもっと深く—新選組、御陵衛士、赤報隊、そして司法省
幕末の十年で、この人は四つの立場を渡り歩いています。新選組の監察 → 御陵衛士 → 薩摩軍 → 赤報隊の軍曹 → 明治政府の官吏。しかも、そのすべてを生き延びました。
三十一歳での入隊
天保六年二月、陸奥国磐城平藩の出身。実名は忠良といいます。十八歳から江戸で暮らし、元治元年ごろ、三十一歳で新選組に入隊しました。伊東甲子太郎の一党が江戸から加わったのと、ほぼ同じ時期にあたります。
隊での役は諸士調役兼監察、そして撃剣師範。慶応元年四月の編成表に、島田魁・山崎丞・篠原泰之進・服部武雄・芦谷昇・吉村貫一郎・尾形俊太郎と並んで名があります。監察方の中核です。
三条制札事件—十二人を率いて酒屋に伏せた
慶応二年九月、三条大橋の高札が三度も抜かれて鴨川に捨てられる事件が起きました。新選組は張り込みをかけます。
- 三条会所—原田左之助ら十二人
- 酒屋—新井忠雄ら十二名
- 橋むこうの町屋—大石鍬次郎ら十人
- 橋のたもとの斥候—浅野薫・橋本皆助の二名
深夜に土佐藩士らが現れて衝突し、遅れて駆けつけた新井隊が追い討ちをかけました。土佐藩士は八人で、藤崎吉五郎がその場で討たれ、宮川助五郎が捕らえられました。深手を負った安藤鎌次も翌日亡くなり、残りは逃げ延びています。
そして、隊を出ます
慶応三年一月、新井は伊東甲子太郎とともに九州を遊説し、三月に帰京します。そして同年三月十日、伊東らと新選組を離脱して御陵衛士(高台寺党)を結成しました。十六名の一員です。
同年十一月十八日、油小路事件。伊東甲子太郎が暗殺され、駆けつけた藤堂平助・服部武雄・毛内有之助が斬られます。
新井は薩摩藩邸へ逃げ込んで、生き延びました。
官軍として、そして官吏として
鳥羽・伏見の戦いでは薩摩藩軍に属して出陣。戊辰戦争では赤報隊(徴兵七番隊)に加わり、軍曹として庄内・新潟を転戦しました。
赤報隊といえば、翔凰丸に助けられた相楽総三が「偽官軍」として処刑された、あの隊です。新井はその同じ隊にいて、生き延びています。
維新後は刑部省・司法省の官吏となりました。明治二十四年二月十五日没、享年五十七。
新選組の監察として尊攘派を探索した男が、御陵衛士に移り、薩摩について戦い、明治の司法を担う。幕末に立場を変え続けた人が、みな不誠実だったわけではありません。この人の履歴は、そのことを静かに示しています。
慶応二年の三条制札事件については、三条制札事件とは—三条大橋の高札をめぐる新選組と土佐藩士の斬り合いにまとめています。
新井忠雄の生きた時代—磐城平藩と老中・安藤信正
奥州岩城の出身 新井忠雄は奥州の岩城の出身です。磐城平藩(安藤家)の藩主・安藤信正は、桜田門外の変のあと老中として幕府の政治を担い、和宮の降嫁を進めました。文久二年(1862)正月には、江戸城の坂下門外で水戸の浪士に襲われています。
御陵衛士へ 新井は新選組で諸士取調役兼監察を務めましたが、慶応三年(1867)三月、伊東甲子太郎とともに隊を離れて御陵衛士に加わりました。故郷の藩は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に加わって新政府軍と戦い、磐城平城は落城しています。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
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