| 尾形俊太郎 | |||
| 職名 | 副長助勤 | ||
| 出身 | 肥後熊本 | ||
| 終焉場所 | 熊本 | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||
尾形俊太郎をもっと深く—「文学師範」を務めた学者肌の幹部
剣の腕で名を上げた隊士の多い新選組にあって、学問で重んじられた幹部です。そして会津で姿を消し、長く行方が分からなかった人でもあります。
熊本から来た副長助勤
天保十年、肥後国熊本藩領の来民(いまの熊本県山鹿市)の生まれです。文久三年五月以降に入隊し、翌六月には早くも副長助勤に取り立てられました。元治元年十二月には五番組の組頭、慶応元年四月には諸士取調役兼監察と文学師範を務めています。
長州への使いに二度随行
慶応元年と二年、幕府が長州藩を問いただすために使者を広島へ送った際、近藤勇に従って二度とも随行しました。学識を買われての人選と考えられています。
会津で記録が途切れる
鳥羽伏見のあとも隊に従って会津まで転戦しますが、慶応四年八月二十二日、会津若松の城下で記録が途絶えます。その後の消息は、長いあいだ分かっていませんでした。
熊本で私塾の先生に
のちの調査で、尾形は熊本へ帰り、本来の姓「三嶋」に戻っていたことが分かりました。明治二年に結婚し、いまの山鹿市鹿北町で私塾を開いて子どもたちに学問を教えています。大正二年六月十三日に亡くなりました。
尾形俊太郎の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天保十年(1839)四月二十六日 | 肥後国熊本藩領の来民に生まれる。本姓は三嶋、諱は義代 |
| 文久三年(1863)五月以降 | 壬生浪士組に入る |
| 文久三年六月 | 副長助勤になる |
| 元治元年(1864)六月 | 池田屋事件では留守居を命じられ、斬り込みには加わらない |
| 元治元年十二月 | 五番組の組頭になる |
| 慶応元年(1865)四月 | 諸士取調役兼監察と文学師範を務める |
| 慶応元年〜二年 | 長州訊問使に随行する近藤勇に、二度従う |
| 慶応三年(1867)六月 | 幕臣取り立てで、副長助勤として見廻組格になる |
| 慶応四年(1868)一月 | 鳥羽・伏見の戦いで目付を務める |
| 慶応四年八月二十二日 | 斎藤一ら三十八人とともに、会津若松の城下に泊まった記録を最後に消息が途絶える |
| 明治二年(1869) | 熊本に帰って結婚し、三嶋の姓に戻る |
| 大正二年(1913)六月十三日 | 死去 |
尾形俊太郎を読み解く
「文学師範」とは
新選組には、剣術や槍術のほかに「文学」の師範も置かれていました。ここでいう文学は小説のことではなく、漢学や書、つまり武士の教養としての学問です。尾形はその師範を務め、近藤勇が長州藩を問いただす使者に加わったときにも二度とも随行しています。近藤が交渉の場に学問のできる幹部を連れて行ったことから、尾形への信頼の厚さがうかがえます。
長く謎だった後半生
会津で記録が途絶えてから、尾形の消息は長いあいだ分かりませんでした。仲間の中島登は「行方不明」とし、横倉甚五郎は「会津の城に残った」と書き残しています。明治に名を変えて警視庁で働き、消防署長として殉職したという説まで語られました。
平成二十五年に分かったこと
平成二十五年(2013年)、尾形の子孫の家に伝わった漢詩や書が京都の霊山歴史館に寄せられ、後半生が明らかになりました。会津で戦ったあと熊本へ帰り、三嶋の姓に戻って結婚し、山鹿の山あいで私塾を開いて「しゅんがん先生」と呼ばれていたのです。会津で目を傷め、晩年は目が見えなくなっていたことも分かりました。
語らなかった新選組
尾形は、自分が新選組の隊士だったことを周りに話さず、書き物の片隅に「元壬生浪士」と記しただけだったといいます。明治の世では、新選組の幹部だったことは口に出しにくい過去でした。書に残したとされる「一人で来て一人で帰るも迷なり」という言葉には、そうした後半生への思いが込められているのかもしれません。
はっきりしないこと
会津で隊を離れた時期と理由、熊本へどのように帰ったのかは、まだ分かっていません。
尾形俊太郎をさらに掘り下げる
池田屋の夜、同郷の宮部鼎蔵が斬られた
尾形の出身地・熊本は、幕末の尊王攘夷派の一大拠点でした。元治元年六月の池田屋事件で新選組に討たれた志士の中心にいたのが、熊本藩士の宮部鼎蔵です。宮部は吉田松陰の親友としても知られ、この夜、池田屋で命を落としました。同じく熊本の松田重助もこの夜に討たれています。
尾形はこの夜、屯所の留守居を命じられ、斬り込みには加わっていません。同郷の名高い志士が討たれた現場に、熊本出身の尾形がいなかったのは偶然かもしれません。けれども、熊本の出でありながら尊攘派を取り締まる新選組の幹部になった尾形にとって、池田屋の夜は複雑な思いを抱かせるものだったはずです。のちに佐久間象山を斬ったとされる河上彦斎も熊本の人でした。熊本は、新選組と刃を交えた志士を数多く出した土地でもあったのです。
長州訊問使の随行で何をしたのか
慶応元年と二年に尾形が近藤勇に従った広島行きは、第一次長州征討のあと、長州藩をどう処分するかを幕府が問いただすための使いでした。一度目は大目付の永井尚志、二度目は老中の小笠原長行が使者を務めています。近藤は長州の内情を探るため、長州の領内に入ることまで望みましたが、かないませんでした。
幕府の使者に従うということは、書状のやりとりや、相手方との話し合いの場に立ち会うということでもあります。剣の腕よりも、文を読み書きし、相手の言い分を正しく聞き取る力が求められる仕事です。文学師範を務めた尾形が二度とも選ばれたのは、隊の中でこうした役目をこなせる人が限られていたからでしょう。
八月二十二日という日付
尾形の記録が途絶える慶応四年八月二十二日は、会津の戦いの大きな節目にあたります。前日の二十一日、会津の東の守りだった母成峠が新政府軍に破られ、二十三日には新政府軍が若松の城下になだれこみました。白虎隊の少年たちが飯盛山で自刃したのも、この二十三日のことです。
つまり尾形が最後に記録に残ったのは、城下が戦火に包まれる前の日でした。その翌日から会津は籠城戦に入り、城の外にいた者たちは散り散りになります。尾形が隊を離れたのが、この混乱のさなかだったとしても不思議ではありません。会津での新選組の戦いは会津の新選組にまとめています。
学問の人が選んだ後半生
明治の熊本は、神風連の乱(明治九年)や西南戦争(明治十年)の舞台となり、なお激しく揺れていました。尾形はそのなかで、山あいの村で子どもたちに学問を教える道を選んでいます。京都で文学師範として隊士に学問を説いた人が、故郷では子どもたちの先生になった。剣ではなく学問の人だった尾形らしい、一本筋の通った生き方だったといえるでしょう。
尾形俊太郎と関わりの深い人たち
尾形俊太郎のゆかりの地
- 熊本藩—出身の藩。晩年は山鹿市鹿北町で私塾を開きました。
- 壬生・八木邸(京都市)—京都時代の屯所。
- 会津藩(会津若松)—記録が途絶えた城下。
参考にした資料:霊山歴史館に寄贈された尾形家伝来の文書、『鹿北町史』、Wikipedia「尾形俊太郎」。
新選組をもっと知る本
尾形は書ける隊士として重んじられた人です。残された文字が人の記憶を決めるという点で、永倉新八が晩年に語った『新撰組顛末記』と、昭和の初めの聞き書きである子母澤寛『新選組始末記』は、いまも新選組像のもとになっています。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:大野右仲(函館新撰組頭取)
次の隊士 ▶:尾関雅二郎(諸士取調役兼監察)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

