富山弥兵衛【新選組隊士 伍長 幕末】

提灯を手に夜の京都を巡回する新選組隊士たち
富山弥兵衛
職名 伍長
出身 薩摩
終焉場所 越後出雲崎
終焉方法 殺害
薩摩藩士の子で、新選組の伍長となりました。 御陵衛士に加わり、伏見街道で近藤勇を狙撃します。 戊辰戦争で北越へ向かい、出雲崎で水戸諸生党に殺されました。
目次

富山弥兵衛をもっと深く—新選組にいた薩摩の人

新選組は、のちに薩摩・長州を敵として戦うことになる組織です。その中に、薩摩藩士の子がいました。富山弥兵衛です。

薩摩から新選組へ

天保十四年、薩摩藩士の子として生まれました。元治元年に新選組に加わり、翌年には伍長となっています。薩摩の出身だったことから、薩摩が送り込んだ間者だったのではないかという見方もありますが、確かではありません。

御陵衛士、そして近藤狙撃

のちに伊東甲子太郎らとともに御陵衛士に加わり、油小路事件では現場を逃れて薩摩藩にかくまわれました。慶応三年十二月、伏見街道での近藤勇狙撃にも、阿部十郎らとともに加わっています。

越後出雲崎で

戊辰戦争では新政府軍の側で北越へ向かいます。しかし慶応四年閏四月一日、越後の出雲崎で旧幕府方の水戸諸生党に捕らえられ、殺されました。二十六歳でした。出雲崎の教念寺に墓碑が残っています。

富山弥兵衛の歩みを年表で

年できごと
天保十四年(1843)薩摩藩士の子として生まれる。諱は豊国、通称は弥兵衛・四郎
元治元年(1864)新選組に入る。七番大砲組に属したとされる
慶応元年(1865)伍長になる
慶応三年(1867)三月伊東甲子太郎らとともに御陵衛士として新選組を離れる
慶応三年十一月油小路事件。現場を逃れ、薩摩藩にかくまわれる
慶応三年十二月阿部十郎らと伏見街道で近藤勇を狙撃する
慶応四年(1868)一月鳥羽・伏見の戦いに薩摩藩兵として加わる
慶応四年閏四月一日越後出雲崎で会津方の動きを探るうち、水戸諸生党に捕らえられて殺される。二十六歳

富山弥兵衛を読み解く

敵の側から入った隊士

新選組は、京都で長州や薩摩の志士を取り締まる側にいました。その隊に、薩摩藩士の子が伍長として加わっていたのです。はじめから薩摩が送り込んだ間者だったのか、それとも純粋に入隊したのちに伊東甲子太郎の考えに共鳴したのかは、はっきりしません。ただ、御陵衛士が薩摩藩と近い関係にあったこと、油小路事件のあと薩摩藩にかくまわれたことを考えると、富山の出自が衛士と薩摩をつなぐ役に立ったことは十分に考えられます。

最期と、敵の称賛

出雲崎で捕らえられた富山の首はさらされましたが、そのそばの捨札には「後世諸士ノ亀鑑大丈夫ノ士」、つまり後の武士の手本となる立派な男だ、と書かれていたと伝わります。殺した側がこれほど称えるのは珍しいことです。捕らえられてからの態度がよほど堂々としていたのでしょう。辞世として「から人は死してぞ止まめ我はまたなな世をかけて国につくさん」という歌が伝わっています。他の人は死ねば終わるが、自分は七度生まれ変わっても国に尽くす、という意味です。

身なりまで残る証言

目撃した人の話として、もじり袖の着物の端を内側に折り、股引に脚絆をはいていた、という姿が伝わっています。探索の仕事にふさわしい、目立たない旅姿だったのでしょう。新選組の隊士で、最期のころの身なりまで分かる人は多くありません。

はっきりしないこと

間者だったかどうかのほか、伏見街道の狙撃で富山が鉄砲を撃った本人だったのかも、史料によって書き方が分かれます。伏見街道の狙撃に至る流れは油小路事件とはもあわせてご覧ください。

富山弥兵衛をさらに掘り下げる

入隊したころ、薩摩は「味方」だった

富山が新選組に入った元治元年、薩摩藩はまだ新選組の敵ではありませんでした。前の年の八月十八日の政変では、薩摩藩は会津藩と手を組んで長州藩を京都から追い出しています。元治元年七月の禁門の変でも、御所に攻めのぼった長州勢を退けたのは会津・薩摩の兵でした。新選組を預かる会津藩にとって、このころの薩摩は頼りになる味方だったのです。

その関係が変わるのは、慶応二年正月に薩摩と長州がひそかに手を結んでからです。つまり富山は、味方の藩の出身者として入隊し、やがてその藩が敵に回っていく様子を、新選組の内側から見ることになりました。はじめから間者だったのかどうかを考えるときには、入隊した時点での薩摩と会津の関係も、あわせて見ておく必要があります。

伏見街道の一発が変えたもの

慶応三年十二月十八日、二条城から伏見奉行所へ戻る近藤勇は、伏見街道の墨染のあたりで鉄砲に撃たれ、右肩に深い傷を負いました。撃ったのは、油小路で盟主の伊東甲子太郎を殺された御陵衛士の生き残りたちとされます。

この傷のために、近藤は翌慶応四年正月の鳥羽伏見の戦いで隊を指揮することができず、大坂で手当てを受けていました。新選組が局長を欠いたまま戦うことになったのは、この狙撃の結果です。富山らの一発は、仇討ちであると同時に、戊辰戦争の最初の戦いにおける新選組の姿を大きく変えたことになります。そのときの戦いぶりは鳥羽伏見の戦いと新選組にまとめています。

出雲崎という土地

富山が命を落とした越後の出雲崎は、佐渡へ渡る港町で、幕府の直轄地でした。佐渡の金山から運ばれた金銀が陸に上がる、北国街道の要所でもあります。戊辰戦争では、越後は長岡藩や会津藩が新政府軍と戦う北越戦争の舞台になりました。

富山を捕らえた水戸諸生党は、水戸藩の中で尊王攘夷派と争い、藩を追われて会津や越後へ逃れてきた人たちです。薩摩の出で新選組に入り、御陵衛士となって新選組と対立し、最後は同じく幕府の側に立つ水戸の武士に殺される—富山の生涯は、幕末の敵と味方がどれほど入り組んでいたかを、そのまま映しています。

新選組にいた「西国」の隊士

新選組の隊士は関東や東北、畿内の出身が多く、九州の出の者は多くありません。そのなかで富山は、よりによって薩摩の出身でした。隊の中で薩摩の言葉を話す彼がどう見られていたのかは伝わっていませんが、伍長に取り立てられていることから、少なくとも腕や人柄は認められていたと考えられます。

富山弥兵衛と関わりの深い人たち

富山弥兵衛のゆかりの地

  • 月真院(京都市東山区)—御陵衛士の屯所。
  • 伏見街道(京都市伏見区)—近藤勇を狙撃した道。
  • 出雲崎(新潟県出雲崎町)・教念寺—最期の地と墓碑。

参考にした資料:市居浩一『高台寺党の人びと』、新人物往来社編『新選組史跡事典』、『「新撰組」全隊士録』、Wikipedia「富山弥兵衛」。

この隊士が関わった油小路事件については、油小路事件とは—伊東甲子太郎と御陵衛士が斬られた夜で詳しくまとめています。

「薩摩藩士」として建てられた碑

出雲崎の教念寺に残る碑には「薩摩藩士 富山四郎豊國之碑」と刻まれています。新選組にいた男が、薩摩藩士として顕彰されているわけです。新選組の隊士名簿と薩摩藩の記録の両方に名が残る人はごく少なく、その珍しさがこの一文に凝縮されています。

越後にいた理由も、ただの流れではありませんでした。会津方の動きを探る任務だったと伝わります。新選組から御陵衛士へ移り、さらに薩摩の側で探索にあたるという経歴で、最後は旧幕府方の水戸諸生党に捕らえられて命を落としました。御陵衛士の屯所だった月真院は、京都の高台寺の塔頭として今も残っています。

新選組をもっと知る本

薩摩から来て新選組に入り、のちに隊を離れた富山の立場は、京都の政治の複雑さそのものです。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は、その込み入った事情をたどる助けになります。

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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)

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