| 島田魁 | |||
| 職名 | 諸士取調役兼監察・伍長 | ||
| 出身 | 美濃 | ||
| 終焉場所 | 京都 西本願寺 | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||
島田魁をもっと深く—「力さん」と呼ばれた、新選組の記録係
身長はおよそ百八十センチ。当時としては飛び抜けた大男で、隊では「力さん」と呼ばれていました。そしてこの人は、新選組のことを書き残した数少ない隊士の一人でもあります。
美濃の庄屋の子が、大垣藩士の養子に
文政十一年、美濃国方県郡雄総村(いまの岐阜市)の庄屋の家に生まれました。幼いころ養子に出され、剣術に打ち込み、名古屋での試合で名を上げます。それが縁で大垣藩士・島田家の養子となりました。
江戸では心形刀流の坪内主馬の道場で修行し、そこで師範代をしていた永倉新八と知り合います。新選組とのつながりは、この出会いから始まりました。
池田屋の「きっかけ」を作った監察
文久三年五月ごろ壬生浪士組に加わり、のちに諸士取調役兼監察、伍長を務めます。監察は隊の内外を探る役目です。
元治元年六月、島田らが古高俊太郎を捕らえたことが、池田屋事件の発端になりました。慶応三年十一月の油小路では、御陵衛士の服部武雄と斬り合っています。同じ年の十二月、伏見街道で近藤勇が狙撃されたときも護衛として同行していました。
永倉を土塀の上へ引き上げた
鳥羽伏見の戦いで、重い装備をつけた永倉新八が土塀を越えられずにいると、島田は自分の銃を差し出してつかまらせ、そのまま引き上げた—という話が伝わっています。怪力ぶりを物語る逸話です。
その後も江戸、北関東、会津、そして箱館まで転戦し、明治二年五月に降伏しました。最後まで戦い抜いた、古参の数少ない一人です。
近藤と土方の戒名を、肌身離さず
明治以降は京都に戻り、剣術の道場を開いたのち、西本願寺の守衛として勤めました。近藤勇と土方歳三の戒名を書いた布をいつも持ち歩いていたといいます。
明治三十三年三月二十日、勤め先の西本願寺で倒れ、そのまま亡くなりました。七十三歳でした。
『島田魁日記』が残りました
島田が書き残した日記は、鳥羽伏見から箱館までの新選組の動きを知る大切な史料になっています。戒名の布などの遺品とともに、いまは京都の霊山歴史館に収められています。
島田魁の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 文政十一年(1828) | 美濃国方県郡雄総村の庄屋の家に生まれる |
| 若いころ | 名古屋での試合で名を上げ、大垣藩士・島田家の養子となる。江戸の坪内主馬の道場(心形刀流)で永倉新八と知り合う |
| 文久三年(1863)五月ごろ | 壬生浪士組に加わる |
| 元治元年(1864)六月 | 古高俊太郎の捕縛にかかわり、池田屋事件の発端をつくる |
| 元治元年 | 永倉新八らと、近藤勇の非行を会津藩に訴える建白書に名を連ねる |
| 慶応三年(1867)十一月 | 油小路事件で、御陵衛士の服部武雄と斬り合う |
| 慶応三年十二月十八日 | 伏見街道で近藤勇が狙撃されたとき、護衛として同行していた |
| 慶応四年(1868)一月 | 鳥羽・伏見の戦い。土塀を越えられない永倉を引き上げたと伝わる |
| 慶応四年〜明治二年 | 甲州、北関東、会津、仙台を経て箱館へ渡る |
| 明治二年(1869)五月 | 箱館で降伏する |
| 明治 | 京都に戻って道場を開き、のちに西本願寺の守衛となる |
| 明治三十三年(1900)三月二十日 | 勤め先の西本願寺で倒れ、亡くなる。七十三歳 |
島田魁を読み解く
近藤より年上の古参
島田は文政十一年の生まれで、天保五年生まれの近藤勇より六つ、天保六年生まれの土方歳三より七つ年上でした。壬生浪士組のはじめから加わった隊士の中では、年長の部類に入ります。それでいて幹部の座を求めることはなく、監察や伍長として現場を支え続けました。
京都時代の古参の多くは、戦いに倒れ、粛清され、あるいは途中で隊を去っていきました。はじめから加わり、箱館の降伏まで隊に残った者はごくわずかです。年長の島田が最後まで残ったことは、腕力だけでなく、隊の浮き沈みに流されない芯の強さを持っていたことをうかがわせます。
建白書に名を連ね、それでも隊に残った
元治元年、島田は永倉新八・原田左之助・斎藤一・尾関雅次郎・葛山武八郎とともに、近藤勇の振る舞いを会津藩に訴える建白書に名を連ねています。局長に意見した六人の一人でありながら、島田はその後も近藤を支え、伏見街道で近藤が撃たれたときにはそのそばにいました。晩年まで近藤と土方の戒名を身につけていたことを思えば、建白は近藤を見限るためではなく、隊を正すためのものだったと島田は考えていたのでしょう。六人のその後は尾関雅次郎のページで一覧にしています。
かつての屯所・西本願寺に勤めるということ
明治の島田が守衛として勤めた西本願寺は、慶応元年から二年あまり、新選組が屯所を置いた寺です。寺の側は新選組の同居を歓迎しておらず、境内での大砲の稽古などに困り果てていたと伝わります。その寺が、明治になって元隊士を守衛として迎え入れました。
かつて寺を困らせた集団の一員が、三十年後にはその寺を守る側に立っていた。島田が西本願寺で倒れ、そのまま亡くなったという最期は、新選組と京都の町とのあいだに流れた長い時間を感じさせます。屯所の歴史は新選組の屯所の移り変わりにまとめています。
日記という「記録係」の仕事
『島田魁日記』は、鳥羽伏見から箱館までの隊の動きを、日付を追って書き留めたものです。戦いの規模や日付を確かめるうえで、永倉新八の回顧録や中島登の覚え書などと並ぶ大切な手がかりになっています。後年の回想に比べて、その時々の動きに近い形で書かれている点が重んじられています。剣と力で知られた島田が、筆でも新選組を支えたことになります。
島田魁と関わりの深い人たち
- 永倉新八—江戸の道場で知り合い、新選組へ導いた人。鳥羽伏見では土塀の上へ引き上げました。
- 近藤勇—伏見街道で狙撃されたとき、護衛として同行していました。
- 土方歳三—箱館まで従った副長。その戒名を生涯持ち歩きました。
- 伊東甲子太郎—油小路で討たれた御陵衛士の盟主。島田はその夜、衛士の服部武雄と戦いました。
島田魁のゆかりの地
- 池田屋騒動の跡(京都市)—島田らの探索が、この夜の斬り込みにつながりました。
- 西本願寺(京都市下京区)—新選組が屯所を置いた寺で、島田が晩年に勤め、亡くなった場所。
- 霊山歴史館(京都市東山区)—『島田魁日記』や遺品を収める博物館。
- 五稜郭・弁天台場跡(函館市)—箱館戦争の舞台。
参考にした資料:『島田魁日記』、中村彰彦『いつの日か還る 新選組伍長島田魁伝』、永倉新八『新撰組顛末記』。
箱館政権のもとでの新選組は、箱館の新選組—蝦夷地で入隊した隊士たちと、弁天台場の降伏でまとめています。
池田屋事件の夜に出動した隊士の顔ぶれは、池田屋事件に出動した新選組隊士—近藤隊の十人と、駆けつけた土方隊・井上隊にまとめています。
新選組の屯所の移り変わりは、新選組の屯所の移り変わり—壬生・西本願寺・不動堂村・伏見奉行所、そして流山へにまとめています。
新選組の隊士たちが学んだ流派は、新選組隊士の剣術流派—天然理心流・神道無念流・北辰一刀流、誰が何を学んだのかにまとめています。
降伏してからの二十年
箱館で降伏したあと、島田は明治二年十一月まで謹慎し、名古屋藩の預かりとなりました。赦されてからは京都で剣術の道場を開きますが続かず、レモネードを売ったり雑貨を扱ったりしたと伝わります。そのあとに落ち着いたのが、西本願寺の守衛でした。かつて隊の屯所が置かれた寺に、守衛として勤めることになったわけです。
その西本願寺で亡くなり、墓は京都の大谷祖廟に納められています。隊の名簿や記録を書き写して残したのもこの人で、新選組の研究が成り立っているのは島田が書いたものに支えられている部分があります。斬り合いで名を残した隊士ではなく、書き残した隊士として大きい存在です。
新選組をもっと知る本
島田魁は明治まで生き、隊の記録を書き残した一人です。同じく生き残って晩年に語った永倉新八の『新撰組顛末記』と並べて読むと、京都の日々が二人の目から立ち上がってきます。子母澤寛『新選組始末記』は、そうした関係者の話を昭和の初めに集めた本です。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:柴田彦三郎(平隊士)
次の隊士 ▶:相馬主計(函館新撰組隊長)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

