酒井兵庫【新選組隊士 勘定方 幕末】

提灯を手に夜の京都を巡回する新選組隊士たち
酒井兵庫
職名 勘定方
出身 摂津住吉
終焉場所 不明
終焉方法 殺害(とも伝わる)
摂津住吉の出身で、勘定方を務めました。 池田屋事件で褒賞を受けますが、慶応元年ごろ脱走します。 脱走後、沖田総司らに斬られたとも伝わります。
目次

酒井兵庫をもっと深く—死体の始末に耐えられず脱走した勘定方

隊のお金と、もう一つの仕事を任された勘定方の隊士です。その仕事が、脱走の理由になったといわれます。

摂津住吉の出

摂津国住吉の出身です。新選組では勘定方を務め、元治元年の池田屋事件にも加わって褒賞金十五両を受けました。

勘定方の、もう一つの仕事

勘定方の仕事には、切腹や粛清で死んだ隊士の遺体を葬る手配も含まれていました。酒井はその務めを続けるうちに恐ろしくなり、慶応元年七月ごろ隊を脱走した、という説が有力です。

斬られたと伝わる

脱走した酒井は、沖田総司らの手で斬られたとも伝わりますが、はっきりしたことは分かっていません。板橋の近藤勇・土方歳三の供養塔には、亡くなった隊士の一人として名が刻まれています。

酒井兵庫の歩みを年表で

年できごと
生年不詳摂津国住吉の出身とされる
文久三年〜元治元年ごろ新選組に入り、勘定方(会計方)を務める
元治元年(1864)六月池田屋事件に加わり、褒賞金十五両を受ける
元治元年〜慶応元年行軍の記録「新選組行軍録」に、原田左之助・山崎烝らと同じころの名が見える
慶応元年(1865)二月総長・山南敬助が切腹する
慶応元年三月屯所が壬生から西本願寺へ移る
慶応元年七月ごろ隊を脱走する
その後沖田総司らに斬られたとも伝わるが、確かではない

酒井兵庫を読み解く

勘定方は「隊の台所」だった

新選組の勘定方は、隊のお金の出し入れを預かる役です。隊士の手当、屯所の暮らしにかかる費用、刀や武具の手配などが、すべてこの係を通りました。剣の腕を買われて入る隊士が多いなかで、勘定方には読み書きと算盤のできる人が選ばれました。そのうえで酒井は池田屋事件にも出動し、褒賞金を受けています。帳簿だけでなく、斬り合いの場にも立った隊士でした。

なぜ耐えられなくなったのか

勘定方のもう一つの仕事が、亡くなった隊士の遺体を寺へ運び、葬る手配でした。酒井が脱走したとされる慶応元年七月の前には、文久三年十二月に野口健司、元治元年九月ごろに葛山武八郎が切腹しています。慶応元年二月には総長の山南敬助も切腹しました。仲間の遺体を何度も見送るうち、次は自分かもしれないと思うようになったのではないか—脱走の理由として有力な説は、こうした流れの中で読むと分かりやすくなります。

同じ勘定方の河合耆三郎との違い

翌慶応二年には、同じ勘定方の河合耆三郎が切腹を命じられています。理由ははっきりしませんが、隊の金が合わなかったためという説がよく語られます。その説のとおりなら、お金を預かる役は、少しの手違いでも命に関わる役目だったことになります。酒井が隊を逃げ出した理由を考えるうえで、河合の最期はよい手がかりになります。

名が刻まれた供養塔

板橋の近藤勇・土方歳三の供養塔は、明治になって永倉新八らが建てたものです。その側面には、亡くなった隊士たちの名が刻まれています。脱走者とされる酒井の名がそこにあることは、酒井が隊を離れたあとに亡くなったと仲間たちが受け止めていたことを示しています。供養塔については【現地取材】近藤勇の墓と板橋刑場跡で紹介しています。

はっきりしないこと

酒井の生年、本当に斬られたのか、斬られたのならどこでなのかは、確かな記録がありません。「沖田総司らが斬った」という話も伝承にとどまります。

酒井兵庫をさらに掘り下げる

山南敬助の弔いから五か月

酒井が脱走したとされる慶応元年七月から五か月前の二月二十三日、総長の山南敬助が切腹しました。隊の古くからの幹部で、隊士たちから慕われていた人です。山南は壬生に近い光縁寺に葬られました。

勘定方が死んだ隊士の葬りの手配を担っていたとすれば、酒井もまた、山南の弔いにかかわっていた可能性があります。名もない平隊士ではなく、隊の柱だった人の遺体を寺へ運ぶ。その経験が、酒井の心に重くのしかかったと考えるのは、決して無理な想像ではないでしょう。光縁寺と隊士たちの関係は光縁寺に眠る新選組隊士たちにまとめています。

西本願寺へ移ったばかりの隊

慶応元年三月、新選組は屯所を壬生から西本願寺へ移しました。隊士の数はふくらみ、隊の組織も大きく作り直されていきます。お金の出し入れは増え、帳簿を預かる勘定方の仕事も重くなりました。

そのうえ、屯所を移したばかりの西本願寺は、もともと長州に心を寄せる寺として知られていました。寺の側は新選組の同居を歓迎しておらず、境内で大砲の稽古をしたり、隊士が肉を食べたりすることに困っていたと伝わります。隊の中にも外にも気の休まらない日々のなかで、酒井は姿を消しました。

「住吉」に逃げたのか

酒井は摂津住吉の出とされます。住吉は住吉大社の門前にひらけた土地で、大坂の町からそう遠くありません。脱走した酒井が故郷の近くへ逃げたのだとすれば、それは新選組にとっても探しやすい土地でした。大坂には新選組の定宿があり、谷万太郎のように大坂に道場を構える隊士もいて、隊は大坂の町の事情にも通じていたからです。

酒井が「沖田総司らに斬られた」と伝わる話は、大坂で見つかって襲われたという筋で語られることがあります。確かめられる記録はありませんが、故郷に近い大坂は、脱走した隊士にとって決して安全な場所ではなかったはずです。大坂での新選組の動きは谷万太郎のページでも触れています。

剣の人ばかりではなかった新選組

新選組というと、斬り合いに強い剣客の集まりと思われがちです。けれども、数百人の隊士を抱える組織を動かすには、お金を数え、帳簿をつけ、物を手配し、死者を弔う人が欠かせませんでした。酒井や河合耆三郎のような勘定方は、そうした目立たない仕事を背負った人たちです。そして二人とも、その務めのなかで隊を去り、あるいは命を落としました。新選組の厳しさは、剣を振るう隊士だけでなく、隊を裏から支える者にも等しく向けられていたのです。

酒井兵庫と関わりの深い人たち

酒井兵庫のゆかりの地

参考にした資料:新選組の褒賞記録、子母澤寛『新選組始末記』ほかの聞き書き。

池田屋事件の夜に出動した隊士の顔ぶれは、池田屋事件に出動した新選組隊士—近藤隊の十人と、駆けつけた土方隊・井上隊にまとめています。

十五両という位置

池田屋事件のあとに配られた恩賞を見ると、この人の隊内での位置が分かります。総額六百両のうち、近藤勇が三十両、土方歳三が二十三両、沖田や永倉ら幹部が二十両、そして酒井は十両と別段金五両の合わせて十五両でした。河合耆三郎や近藤周平と同じ、いちばん下の層です。褒賞の名簿では「坂井兵庫」と書かれています。

勘定方は隊の金の出入りを預かる役ですが、褒賞の額では最下層に置かれていました。斬り合いの働きで評価が決まる隊にあって、帳簿を扱う役がどう見られていたかが、この数字に出ています。のちに脱走したとされる経緯も、そうした扱いと切り離して考えることは難しいかもしれません。ただし酒井の死については確かな記録がなく、隊内で斬られたという話も伝聞の域にとどまります。

新選組をもっと知る本

勘定方だった酒井の死については、隊内で処断されたとする説が伝わるものの確かなことは分かりません。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』が、こうした話のもとになっています。

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