| 松原忠司 | |||
| 職名 | 四番隊隊長 | ||
| 出身 | 播州 | ||
| 終焉場所 | 京都 | ||
| 終焉方法 | 切腹 | ||
入隊前は大阪で柔道道場を開いていました。
その後新選組の募集に参加し、4番隊隊長に任命されます。
池田屋事件でも活躍するが女性関係で失態があり切腹をはかるが未遂に終わります。
その後傷が悪化して没します。「今弁慶」と呼ばれていました。

「今弁慶」と呼ばれた柔術師範
松原忠司は、新選組の四番隊組長・柔術師範を務めた隊士です。柔術と剣に通じた偉丈夫で、僧形をしていたことなどから「今弁慶」の異名で呼ばれたと伝えられます。武勇に優れる一方、情に厚い人物でもあったといいます。

謎に包まれた最期
松原の最期については諸説あり、隊内で起きたある事件をきっかけに自ら命を絶ったとも伝えられます。その死の経緯は今もはっきりとはわかっておらず、豪傑らしからぬ悲哀を帯びた物語として語られる、新選組のなかでも印象深い隊士の一人です。
「無理心中」は、昭和の読み物の話です
松原忠司といえば、自分が斬った浪人の妻と関わりを持ち、責めを感じて心中した、という話がよく知られています。ところがこれは、昭和七年に子母澤寛が書いた『新選組物語』のなかの「壬生心中」という一篇に描かれたもので、新選組の記録での死因は病死です。この話は、八木家の八木為三郎が篠原泰之進や斎藤一から聞いたという話を子母澤が組み立て直したものだといわれ、創作ではないかという疑いも持たれています。
紛らわしいのですが、新選組をめぐっては『新撰組始末記』という同じ題の本が二つあります。一つは明治のころに西本願寺の侍臣だった西村兼文が書いたもの、もう一つが昭和三年の子母澤寛のものです。松原の心中話が載るのは子母澤の『新選組物語』のほうで、始末記ではありません。
実際の死因
新選組の記録は病死とします。ほかに、何かの理由で切腹したものの死にきれず平隊士に落とされた、という点は多くの説に共通しています。銃で撃たれたという説もあります。亡くなったのは慶応元年九月一日。生まれた年は文化十二年ごろとされますが、資料によって大きく食い違っており、確かなことは分かりません。
「今弁慶」と呼ばれたわけ
播磨の小野藩の藩士の子で、天神真楊流の柔術を船川楫之輔柳真斎に学び、みずから北辰心要流の柔術を開きました。関口流の棒術も伝えています。今弁慶と呼ばれたのは、文久三年の八月十八日の政変で御所の警備に立ったとき、坊主頭に白い鉢巻、脇に大薙刀という姿だったからだと伝わります。墓は京都の光縁寺で、山南敬助をはじめ多くの隊士が葬られた寺です。
松原忠司のゆかりの地
- 光縁寺(京都市下京区綾小路)—松原の墓碑がある寺。山南敬助をはじめ、多くの隊士が眠っています。
- 壬生・八木邸(京都市)—京都時代の屯所。
新選組の役職と、それぞれを務めた隊士は、新選組の組織と役職—局長・副長・組長・監察・勘定方・伍長、誰が何を務めたのかにまとめています。
新選組の隊士たちが学んだ流派は、新選組隊士の剣術流派—天然理心流・神道無念流・北辰一刀流、誰が何を学んだのかにまとめています。
松原忠司の生きた時代—「新選組」の名が生まれたころ
八月十八日の政変 松原忠司が入った壬生浪士組は、文久三年(1863)八月十八日の政変で大きな転機を迎えました。会津藩・薩摩藩が長州藩と攘夷派の公家を京都から追い出したこの日、浪士組は会津藩の命で御所の警備に出動します。この働きが認められ、浪士組には「新選組」の名が与えられたと伝えられます(新選組の年表)。
組長として その翌年の池田屋事件では、松原も隊士として働きました。新選組がわずか一年ほどで京都の治安を担う大きな組織へと育っていった時期に、松原は四番隊の組長として隊を支えたのです。
十人の組長と、四番組を率いた松原
組長たちの顔ぶれ
新選組が十の組に分けられたとき、松原忠司は四番組の組長を任されました。隊の総勢は最も多いときでおよそ二百人に達したとされ、一つの組はおよそ十人の隊士と、組長を補う伍長から成っていました。慶応元年ごろの幹部の顔ぶれは次のとおりです。
- 局長:近藤勇
- 副長:土方歳三
- 総長:山南敬助(慶応元年二月に切腹)
- 参謀:伊東甲子太郎
- 一番組:沖田総司/二番組:永倉新八/三番組:斎藤一
- 四番組:松原忠司/五番組:武田観柳斎/六番組:井上源三郎
- 七番組:谷三十郎/八番組:藤堂平助/九番組:鈴木三樹三郎/十番組:原田左之助
播磨から出た隊士
松原の故郷とされる播磨には、姫路藩をはじめ、赤穂・龍野・明石など多くの藩がありました。幕末の姫路藩は、藩主の酒井忠績が慶応元年に大老に就いた譜代の大藩です。一方、松原は大坂で柔術の道場を開いていたと伝わり、そこから新選組に加わりました。藩に仕える道ではなく、腕一つで京都へ出た人だったといえます。
参考資料:Wikipedia日本語版「松原忠司」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:斎藤一(三番隊隊長)
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