| 森常吉 | |||
| 職名 | 函館新撰組頭取改役 | ||
| 出身 | 伊勢桑名藩 | ||
| 終焉場所 | 東京(深川の桑名藩邸) | ||
| 終焉方法 | 切腹 | ||
森常吉をもっと深く—藩主の身代わりになった、新選組の隊長
箱館の新選組を率いた人のなかに、京都の新選組とはまったく別の道から来た桑名藩の重臣がいました。森常吉(陳明、弥一左衛門とも)です。
京都所司代の公用人
文政九年(1826)、桑名藩士・小河内殷秋の長男として生まれ、のちに伯父の森家を継ぎました。藩では御馬廻・横目・御使番・大目付をつとめます。藩主の松平定敬が京都所司代になると、公用人の筆頭として朝廷や諸藩との交渉にあたりました。所司代は京都守護職の会津藩と並んで新選組を支えた立場で、森は京都時代から新選組の近くにいた人でもあります。
藩主を守って北へ
慶応四年(1868)の戊辰戦争では、五月の上野戦争に加わり、その後は関川代次郎らとともに定敬を守って北へ向かいました。国元の桑名はすでに新政府に城を明け渡しており、定敬とその家臣は藩から切り離されたまま戦い続けることになります。
仙台で新選組へ、箱館で頭取改役に
蝦夷地へ渡る船に乗れる人数は限られていました。森は仙台で新選組に入り、ほかの桑名藩士とともに箱館へ渡ります。箱館では新選組の頭取改役、つまり隊長にあたる役に任じられました。このころの新選組は、指揮官も隊士のかなりの部分も桑名藩士という隊になっていました。
すべての責めを負って
明治二年五月、箱館戦争が終わると、森は藩主定敬を守るため、戦いの責任を一身に負いました。刑部省から桑名藩に引き渡され、明治二年十一月十三日、東京・深川の旧藩邸で切腹します。享年四十四。藩主への忠義を詠んだ辞世二首を残しています。
森常吉を読み解く
京都の新選組を知っていた人
森は、京都所司代・松平定敬の公用人の筆頭として、朝廷や諸藩との交渉に当たった人です。京都所司代は、京都守護職の会津藩とともに、新選組が働く京都の治安を預かる役所でした。つまり森は、京都時代の新選組を、支える側から見ていた人です。その森が、最後には箱館で新選組そのものを率いる側に回りました。京都時代の新選組を外から知る人が、最後の新選組の中にいたことになります。
藩主と桑名藩の間で
戊辰戦争の初め、国元の桑名藩は新政府に城を明け渡しました。ところが藩主の定敬は、兄の会津藩主・松平容保とともに、旧幕府方として戦い続けます。藩主について北へ向かった森たちは、藩から切り離された家臣でした。藩を守るためには新政府に従うべきだが、主君を見捨てることはできない—森は、主君の側に立つことを選んだのです。
身代わりの切腹
箱館戦争のあと、新政府は戦いの責任を誰かに負わせる必要がありました。森は藩主・定敬を守るため、責任を一身に引き受けて切腹しています。藩主の命を救う代わりに家臣が腹を切るのは、江戸時代の武士の忠義の形でした。新選組の隊士のなかで、切腹によって最期を迎えたのは、京都時代の隊規で罰せられた人がほとんどです。森の切腹は、それらとは意味のまったく違う、主君への忠義の切腹でした。
箱館新選組の顔ぶれ
箱館の新選組には、森のような桑名藩士、大野右仲のような唐津藩士など、京都時代にはいなかった人たちが多く加わっていました。箱館の新選組の顔ぶれは箱館の新選組にまとめています。
森常吉と桑名藩をさらに掘り下げる
主君・松平定敬は、松平容保の実の弟
森が仕えた桑名藩主・松平定敬は、新選組を預かった会津藩主・松平容保の実の弟です。二人は美濃の高須藩主・松平義建の子で、兄弟にはほかに尾張藩主の徳川慶勝、一橋家を継いだ徳川茂栄がいます。「高須四兄弟」と呼ばれる人たちです。
| 兄弟 | 幕末の立場 | 戊辰戦争 |
|---|---|---|
| 徳川慶勝 | 尾張藩主(前藩主) | 新政府の側につく |
| 徳川茂栄 | 一橋家当主 | 徳川家の存続のため新政府との間を取り持つ |
| 松平容保 | 会津藩主・京都守護職 | 会津で籠城の末に降伏 |
| 松平定敬 | 桑名藩主・京都所司代 | 北へ転戦し、箱館まで渡る |
京都で新選組を支えた守護職と所司代は、兄と弟でした。そして戊辰戦争では、兄弟は敵と味方に分かれています。森が仙台で新選組に入ったのは、主君の兄・容保が預かった隊に、弟の家臣が身を投じたということでもありました。
会津の萱野権兵衛と、桑名の森常吉
戊辰戦争が終わると、新政府は敗れた藩に対して、戦いを起こした責任を取る者を差し出すよう求めました。会津藩では家老の萱野権兵衛が藩主・容保に代わって責めを負い、明治二年五月に切腹しています。
桑名藩でその役目を負ったのが森でした。兄の藩では家老の萱野が、弟の藩では森が、それぞれ主君の身代わりとなって命を差し出したのです。二人の死によって、容保も定敬も命を助けられ、のちに赦されています。新選組を支えた二つの藩の最後は、どちらも一人の家臣の切腹で幕を閉じました。会津藩と新選組の関係は新選組と会津藩で扱っています。
藩から切り離された藩主
桑名藩は、藩主の定敬が江戸にいるあいだに、国元の家臣たちが新政府に城を明け渡すことを決めていました。定敬は帰る城を失ったまま、桑名藩の領地だった越後の柏崎へ向かい、そこから会津、仙台へと転戦します。定敬に従った家臣たちは、藩の命令ではなく、主君個人への忠義で動いた人たちでした。
やがて定敬は箱館にも渡りますが、戦いの終わりを待たずに箱館を離れ、のちに新政府に降りました。藩主が去ったあとも、森たち桑名藩士は新選組の隊士として箱館に残り、最後まで戦っています。主君を守るために戦い、主君が去ったのちも戦い、最後には主君の罪を背負って死ぬ。森の生涯は、藩という枠が崩れていくなかで、人と人との忠義だけを頼りに生きた武士の姿を映しています。
森常吉と関わりの深い人たち
- 土方歳三—仙台で合流した新選組の副長。箱館では陸軍奉行並として上に立ちました。
- 石井勇次郎—同じ桑名藩から新選組に入った隊士。
- 相馬主計—土方の戦死後、弁天台場の新選組を率いて降伏の書状に名を記した最後の隊長。
ゆかりの地
- 弁天台場跡(北海道函館市):新選組が最後に守った台場。いまは函館どつくの入口前に碑が残ります。
- 桑名(三重県桑名市):森が仕えた桑名藩の城下町。
参考にした資料:桑名藩関係の諸研究、箱館戦争に関する諸資料。細かな年月には資料により違いがあります。
弁天台場の降伏までの流れは、箱館の新選組—蝦夷地で入隊した隊士たちと、弁天台場の降伏でまとめています。
切腹の場所と墓
森が頭取改役に就いた時期については、明治元年十二月に約百五十名を率いる隊長になったとする記述と、明治二年の初めとする記述があり、資料が分かれています。
最期についても整理が必要です。切腹した場所を桑名藩の江戸屋敷とし、深川の霊巌寺は墓所であるとする説明があります。深川を切腹の場所とするのは、墓所との混同かもしれません。桑名にも十念寺に墓があると伝わります。藩主に代わって責めを負った家臣として、江戸と桑名の二か所に墓が残っている形です。霊巌寺の墓碑の篆額は主君・松平定敬の筆だと伝えられますが、これは現地で確かめたほうがよい話です。
新選組をもっと知る本
桑名藩の重臣から箱館の新選組を率いる立場になった森の経歴は、京都時代の回顧録には出てきません。子母澤寛『新選組始末記』で隊の全体を、永倉新八『新撰組顛末記』で京都の日々をつかむのがよいと思います。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:毛内有之助(諸士取調役兼監察)
次の隊士 ▶:安富才輔(諸士取調役兼監察)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

