| 吉村貫一郎 | |||
| 職名 | 助勤 | ||
| 出身 | 奥州南部 | ||
| 終焉場所 | 大阪南部藩邸 | ||
| 終焉方法 | 切腹 | ||
妻子5人を抱えた南部脱藩士と伝わります。
山崎烝とともに諜報活動に任じられていました。
鳥羽伏見の戦いで敗れ大阪南部藩屋敷に辿り着き帰藩を願うが断られ藩邸内にて切腹します。
しかし、切腹を命じた居留守役の大野家は南部藩には存在しないといいます。
浅田次郎の「壬生義士伝」を通じて近年著名隊士の仲間入りを果たしました。

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「壬生義士伝」に描かれた隊士
吉村貫一郎は、陸奥・南部盛岡藩の下級武士の出身で、家族を養うために脱藩して新選組に加わったと伝えられます。剣にも学問にも秀でた実直な人物で、隊では諸士の世話役などを務めました。貧しくとも家族を思い、義を重んじたその生き方は、のちに浅田次郎の小説『壬生義士伝』の主人公のモデルとして広く知られるようになりました。
鳥羽・伏見のあとの悲劇
鳥羽・伏見の戦いで奮戦した吉村は、敗走ののち、かつての主家である南部藩の大坂蔵屋敷を頼ったものの受け入れられず、そこで自ら命を絶ったと伝えられます。故郷にも新選組にも帰る場所を失った、幕末の激動に翻弄された一隊士の哀話として、今も多くの人の心を打ちます。
史実の吉村貫一郎—小説とどこが違うのか
新選組の隊士のなかで、語り継がれてきた人物像と史料に残る姿がこれほど食い違う人は、ほかにあまりいません。上の表と本文は長く伝えられてきた筋書きに沿っていますので、近年の史料研究で分かってきたことを、ここに書き足しておきます。
本名は嘉村権太郎といいました
盛岡藩の記録をいくら探しても「吉村貫一郎」という名は出てきませんが、『慶応丁卯雑記』という史料に「新選組目付役吉村貫一郎と申者より聞取、元嘉村権太郎」という一節があり、改名する前の名が書き留められています。大阪の作家・浦出卓郎氏がこの古文書から両者が同じ人物であることを確かめたと岩手日報が平成二十六年に報じ、盛岡のもりおか歴史文化館もこの史料を紹介しています。
足軽ではありませんでした
嘉村権太郎の父・嘉村弓司は盛岡藩の目付をつとめた人で、兄の嘉村矢柄祐尚は二百石六人扶持を領して代官まで務めていますから、藩のなかでは中堅より上の家の出ということになります。『岩手県姓氏歴史人物辞典』が家系を載せています。「貧しい足軽が家族を養うために脱藩した」という人物像は、小説の側で組み立てられたものです。
役職は助勤ではなく、監察でした
慶応元年正月、藩から国元へ帰れという命令が下ったのに従わず出奔し、四月に隊へ加わりました。隊での役は諸士調役兼監察、それに撃剣師範を兼ねています。慶応三年六月に新選組が幕臣へ取り立てられたときは見廻組並で、同じ格に茨木司や安藤雅次郎の名も並びました。そして史料に残る吉村の働きは、斬り合いよりも探索と折衝のほうがはるかに多いのです。慶応元年十一月には大目付永井尚志の長州詰問使に近藤勇や伊東甲子太郎らと随行して広島へ下り、翌年六月には山崎烝とともに広島に残って小瀬川口の戦いのようすを報告しています。慶応三年六月、西本願寺と掛け合って屯所を不動堂村へ移したのも、山崎と吉村の仕事でした。
最期は、戦死とする史料のほうが多く残ります
上の表は「大阪南部藩邸で切腹」としていますが、これは伝わる説のうちの一つです。京都の御香宮に納められた「戊辰東軍戦死者霊名簿」には「正月六日淀ニ於テ戦死 諸士調役 嘉村権太郎」とあり、嘉村家の過去帳も「於摂州伏見戦死」と記していて、明治四十年に出た『戦亡殉難志士人名録』もやはり戦死として扱っています。淀藩は鳥羽・伏見に敗れた旧幕府軍を城に入れず、敗走の列がそこで立ち往生した場所ですから、淀で討たれたという記録には場所としての筋が通ります。いっぽう蔵屋敷で切腹したという話の出どころは西村兼文『新撰組始末記』の「吉村貫一郎切腹之事」ただ一本で、西村は西本願寺の侍臣として新選組と同じ時代を生きた人ではあるものの、隊に敵対する立場から書いており誇張が多いと評されてきた書き手です。
大野次郎右衛門は実在しません
切腹を申し渡した留守居役として知られる大野次郎右衛門は、盛岡藩の記録に見当たらない人物です。妻子五人という設定も、裏づけとなる史料がありません。西村兼文の短い記述に、妻子・漆掻き・大野次郎右衛門といった肉づけを加えたのは子母澤寛『新選組物語』(昭和六年)の「隊士絶命記」で、浅田次郎の『壬生義士伝』は平成十年から十二年にかけての連載でそれをさらに長編へ育てたものになります。浅田氏自身が、名簿に載る実在の人物を出発点にしたと語っています。
それでも、名簿の吉村は確かにいます
史実の吉村貫一郎は、守銭奴とそしられる剣豪ではなく、広島へ下り、本願寺と掛け合い、隊の金の出し入れにも名が残る、文武に通じた実務の人でした。幕末の新選組、隊士名簿はなぜ食い違うのかでも触れたとおり隊士の名は史料ごとに揺れますが、吉村の名は複数の帳面に残っています。小説の吉村とは別の意味で、この人もじゅうぶんに面白い人物だと思います。
鳥羽伏見の戦いでの新選組については、鳥羽伏見の戦いと新選組—伏見奉行所、淀千両松、そして江戸へにまとめています。
吉村貫一郎がいたころの新選組と南部藩
最盛期の隊の幹部
吉村貫一郎は、新選組が最も大きくなった時期に、山崎烝とともに探索の役目に就いていたと伝わります。慶応元年ごろ、総勢はおよそ二百人に達し、屯所は西本願寺に移りました。このころの主な幹部は次のとおりです。
- 局長:近藤勇/副長:土方歳三/参謀:伊東甲子太郎
- 総長:山南敬助(慶応元年二月に切腹)
- 一番組:沖田総司/二番組:永倉新八/三番組:斎藤一
- 四番組:松原忠司/五番組:武田観柳斎/六番組:井上源三郎
- 七番組:谷三十郎/八番組:藤堂平助/九番組:鈴木三樹三郎/十番組:原田左之助
故郷・盛岡藩の戊辰戦争
吉村の故郷・盛岡藩(南部藩)は、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に加わりました。家老の楢山佐渡が兵を率いて秋田へ攻め込みましたが押し返され、明治元年九月に降伏しています。楢山は戦後に責めを負い、盛岡の報恩寺で処刑されました。吉村が鳥羽伏見で敗れて大坂の藩邸を頼ったのは、その盛岡藩がまだ戦に踏み切る前のことでした。
参考資料:Wikipedia日本語版「吉村貫一郎」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
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