| 篠原泰之進 | |||
| 職名 | 諸士取調役兼監察 | ||
| 出身 | 筑後久留米(うきは) | ||
| 終焉場所 | 東京 青山 | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||
篠原泰之進をもっと深く—油小路を生き延び、近藤を撃った側
新選組から分かれた御陵衛士の生き残りです。のちに近藤勇を狙撃する側に回り、明治四十四年まで生きて回顧録を残しました。
久留米の出、伊東の同志
文政十一年、筑後国生葉郡高見村(いまの福岡県うきは市)に生まれました。横浜で勤めていたころ伊東甲子太郎と親しくなり、元治元年十月、伊東らと上京して新選組に加わります。諸士取調役兼監察と柔術師範を務めました。
御陵衛士、そして油小路
慶応三年三月、伊東とともに新選組を離れ、御陵衛士となります。同年十一月、伊東が油小路で討たれ、駆けつけた衛士も襲われますが、篠原は切り抜けて薩摩藩邸にかくまわれました。
伏見街道で、近藤を撃つ
慶応三年十二月十八日、生き残った衛士たちは伏見街道で近藤勇を狙撃し、肩に重い傷を負わせます。近藤が鳥羽伏見の戦いで指揮を取れなかったのは、この傷のためです。篠原はその後、新政府軍の側で鳥羽伏見を戦い、赤報隊にも加わりました。
秦林親として
明治以降は秦林親と名を改め、弾正台や大蔵省の造幣の部署に勤めました。明治末に書いた回顧録『秦林親日記』は、日記という名ですが後年の回想です。明治四十四年六月十三日、東京・青山で亡くなりました。八十四歳でした。
篠原泰之進の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 文政十一年(1828) | 筑後国生葉郡高見村(いまの福岡県うきは市)に生まれる |
| 文久年間 | 横浜で勤めていたころ、伊東甲子太郎と親しくなる |
| 元治元年(1864)十月 | 伊東らとともに京都へ上り、新選組に入る。諸士取調役兼監察、柔術師範 |
| 慶応三年(1867)三月 | 伊東とともに御陵衛士となり、新選組を離れる |
| 慶応三年十一月十八日 | 油小路で新選組に襲われるが切り抜け、薩摩藩邸にかくまわれる |
| 慶応三年十二月十八日 | 伏見街道で近藤勇を狙撃し、肩に深手を負わせる |
| 慶応四年(1868) | 新政府軍の側で鳥羽・伏見を戦い、赤報隊にも加わる |
| 明治 | 秦林親と名を改め、弾正台や大蔵省の造幣の部署に勤める |
| 明治四十四年(1911)六月十三日 | 東京・青山で死去。八十四歳 |
篠原泰之進を読み解く
新選組の「監察」から、近藤を撃つ側へ
篠原は新選組で監察と柔術師範を務めました。隊の内側を取り締まる役にいた人が、わずか三年あまりのちには、伏見街道で局長の近藤勇を撃つ側に回っています。狙撃で肩を砕かれた近藤は、鳥羽・伏見の戦いで指揮を取れませんでした。新選組の戦いの流れを変えた一発に、かつての監察が関わっていたことになります。
龍馬暗殺をめぐる証言者
油小路を生き延びた篠原は、坂本龍馬暗殺の現場に残された刀の鞘を原田左之助のものだと証言した一人とされます。この証言は、新選組が龍馬暗殺を疑われる大きな理由になりました。仲間の伊東を殺された篠原たちにとって、新選組を犯人と見ることは自然なことだったでしょう。ただし、今では見廻組の犯行とする説が有力です。この経緯は坂本龍馬暗殺と新選組にまとめています。
明治まで生きた御陵衛士
御陵衛士の多くは油小路や戊辰戦争で命を落としましたが、篠原は明治四十四年まで生きました。明治末に書いた回顧録『秦林親日記』は、御陵衛士の側から新選組を見た数少ない記録です。ただ、日記という名前でも後になって書いた回想なので、記憶違いや、自分たちに都合のよい書き方が含まれている可能性があります。新選組の側の記録と照らし合わせて読むことが大切です。ともに油小路を生き延びた加納鷲雄のページ、油小路事件とはもあわせてご覧ください。
篠原泰之進をさらに掘り下げる
新選組の「監察」から、明治の「弾正台」へ
篠原が明治のはじめに勤めた弾正台は、明治二年に置かれた役所で、役人の不正を取り締まり、世の中の風紀を正すことを役目としていました。いわば新しい政府の中の「監察」です。
篠原は新選組で諸士取調役兼監察を務め、隊士の行いを見張る側にいました。その経験を持つ人が、明治政府で同じように人の行いを見張る役所に入ったことになります。新選組の監察は、隊の内側の規律を守るための役でした。仕える先は幕府から新政府へ正反対に変わりましたが、篠原の仕事の中身は、案外つながっていたのかもしれません。役職の仕組みは新選組の組織と役職にまとめています。
赤報隊の悲劇をくぐり抜ける
鳥羽伏見のあと篠原が加わった赤報隊は、相楽総三らが率いた新政府軍の先鋒の部隊です。東山道を進みながら、年貢を半分にするという新政府の方針を触れ回りました。ところが新政府はまもなくこの方針を取り消し、赤報隊を「偽官軍」とみなします。相楽らは慶応四年三月、信濃の下諏訪で処刑されました。
御陵衛士の生き残りたちは、赤報隊の中で鈴木三樹三郎を隊長とする隊に属していましたが、早めに呼び戻されたため、相楽らのような最期を免れています。新選組の刃をくぐり抜け、新政府の側に移ってからも、あやうく味方の手で罪人にされかけたわけです。幕末の最後の数か月、篠原はいくつもの死地を越えてきたことになります。
近江屋事件の「証言者」として
慶応三年十一月の近江屋事件で坂本龍馬と中岡慎太郎が斬られたとき、現場に残された刀の鞘を「原田左之助のものだ」と証言したのは、篠原ら御陵衛士だったとされます。この証言が、新選組が龍馬暗殺を疑われる大きな理由の一つになりました。
新選組を離れたばかりの御陵衛士の言葉が、新選組の命運に影を落としたのです。その三日後に油小路事件が起き、伊東甲子太郎が斬られています。篠原の生涯は、新選組にかかわる二つの大きな事件—龍馬の暗殺と油小路—に、どちらも深く結びついていました。そのいきさつは坂本龍馬暗殺と新選組で扱っています。
久留米という故郷
篠原の生まれた筑後の高見村は、久留米藩の領地でした。久留米からは、尊王攘夷派の指導者として知られた真木和泉が出ています。新選組が初期に斬った楠小十郎は、この真木の命で入りこんだ間者だったともいわれます。尊攘派の気風の強い久留米の出の篠原が、やがて尊王を掲げる伊東甲子太郎とともに新選組を離れたのは、故郷の空気とも無縁ではなかったのかもしれません。
篠原泰之進と関わりの深い人たち
- 伊東甲子太郎—横浜以来の同志で、御陵衛士の盟主。
- 近藤勇—伏見街道で狙撃した相手。
- 藤堂平助—ともに御陵衛士となり、油小路で倒れた仲間。
- 斎藤一—一時は同じ御陵衛士にいた人。
- 大石鍬次郎—油小路で伊東を殺害した側の隊士。
篠原泰之進のゆかりの地
- 月真院(京都市東山区)—御陵衛士の屯所。
- 油小路七条のあたり(京都市下京区)—油小路事件の現場。
- 伏見街道(京都市伏見区)—近藤勇を狙撃した道。
- うきは市(福岡県)—生まれ故郷。
参考にした資料:『秦林親日記』、御陵衛士・油小路事件に関する諸研究。
この隊士が関わった油小路事件については、油小路事件とは—伊東甲子太郎と御陵衛士が斬られた夜で詳しくまとめています。
坂本龍馬暗殺で新選組が疑われたいきさつは、坂本龍馬暗殺と新選組—なぜ疑われ、隊士たちは何を背負ったのかにまとめています。
青山霊園に並ぶ二人
篠原の墓は東京の青山霊園にあります。柱のかたちの小さな墓石に「泰林親之墓」と刻まれ、側面に「明治四十四年六月十三日卒 享年八十有四」とあります。新選組から分かれた側の隊士が、八十四歳まで生きたことになります。
同じ青山霊園には、元御陵衛士の加納鷲雄の墓もあります。油小路の夜を生き延びた二人が、同じ霊園に眠っている形です。篠原が新選組で務めたのは柔術師範で、流派は良移心当流でした。晩年にはキリスト教に入信しています。幕末に槍を持って走り回った人が、明治を生き抜いて信仰に落ち着いたという歩みも、この人の記録の一部です。
新選組をもっと知る本
篠原は明治まで生きて、自分の見たことを書き残した一人です。同じく晩年に語った永倉新八『新撰組顛末記』と読み比べると、隊を離れた側と残った側で、同じ事件の見え方が違うことがよく分かります。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
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