| 近藤芳助 | |||
| 職名 | 伍長 | ||
| 出身 | 近江国友 | ||
| 終焉場所 | 横浜 | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||
近藤芳助をもっと深く—明治の横浜で、議員になった隊士
新選組の伍長から、明治の横浜で弁護士、そして県会議員になった人です。残した手紙は、新選組を知る史料にもなっています。
国友村の生まれ、二十二歳で入隊
天保十四年、近江国国友村(いまの滋賀県長浜市)に生まれました。鉄砲鍛冶で知られる村です。幼くして両親を亡くし、元治元年十月、江戸での隊士募集に応じて二十二歳で新選組に入りました。伍長を務めています。
母成峠で本隊とはぐれる
鳥羽伏見の戦いで負傷し、甲州勝沼の戦いにも加わりました。会津戦争では母成峠の戦いで本隊とはぐれ、そこで隊を離れていた永倉新八と再会します。米沢へ向かう途中で新政府軍に捕らえられました。
代言人から県会議員へ
明治三年に放されたあと横浜に出て、代言人(いまの弁護士)を開きます。明治二十年に県会議員となり、その後も市会議員・県会議員を務めました。永倉新八や斎藤一ら生き残った隊士とも交流が続いています。大正十一年七月五日、八十歳で亡くなりました。
明治以降は生家の姓に戻って川村三郎と名乗りました。議員仲間の高橋正意に宛てて新選組のことを書いた手紙二通が巻物に仕立てられて残り、『新撰組往事実戦談書』として京都府立総合資料館に収められています。明治三十九年ごろのものです。また大切に持っていた近藤勇と土方歳三の写真は子孫の家に伝わり、令和三年に日野の土方歳三資料館へ寄贈されました。
近藤芳助の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天保十四年(1843)五月 | 近江国国友村(いまの滋賀県長浜市)に生まれる |
| 弘化二年(1845)・嘉永六年(1853) | 父を、ついで母を亡くす |
| 元治元年(1864)十月 | 江戸での隊士募集に応じて新選組に入る。のちに伍長 |
| 慶応二年(1866) | 脱走した柴田彦三郎の追っ手に加わる |
| 慶応四年(1868)一月 | 鳥羽・伏見の戦いで負傷する |
| 慶応四年 | 甲州勝沼の戦いに加わる。会津戦争の母成峠の戦いで本隊とはぐれ、永倉新八と再会する |
| 慶応四年 | 米沢の城下で新政府軍に捕らえられ、江戸へ送られる。取り調べでは幕臣と名乗る |
| 明治三年(1870) | 放される。のちに横浜で代言人を開く |
| 明治二十年(1887) | 県会議員になる |
| 大正十一年(1922)七月五日 | 死去。八十歳 |
近藤芳助を読み解く
鉄砲の村から来た隊士
近藤芳助が生まれた国友村は、戦国時代から鉄砲づくりで知られた村です。幕末の新選組は、刀の集団から、しだいに洋式の銃を使う部隊へ変わっていきました。国友村の生まれであることが芳助の入隊や役目にどう関わったのかは分かりませんが、鉄砲の村の出身者が新選組にいたことは、興味深い取り合わせです。
追っ手として、捕らわれる者として
芳助は慶応二年、脱走した柴田彦三郎を追う追っ手の一人になりました。新選組の掟を守らせる側にいたことになります。その芳助が、慶応四年には米沢で新政府軍に捕らえられ、取り調べを受ける側に回ります。取り調べで「幕臣」と名乗ったのは、新選組の隊士だと知られれば重い罪に問われるおそれがあったためと考えられます。
語り残した「生き残り」
芳助は、明治の横浜で代言人(いまの弁護士)となり、県会議員まで務めました。議員仲間の高橋正意に宛てた手紙は『新撰組往事実戦談書』として伝わり、京都府立の資料館で公開されています。隊士自身が書いた記録は多くないため、芳助の手紙は新選組を知る貴重な手がかりです。平成二十一年にはテレビの鑑定番組に、芳助の家に伝わった近藤勇と土方歳三の写真が出され、話題になりました。
はっきりしないこと
芳助が入隊したときの縁や、会津で隊とはぐれてから米沢へ向かった道筋は、細かくは分かっていません。
近藤芳助をさらに掘り下げる
鉄砲の村に生まれ、刀の隊に入った
芳助の生まれた国友村は、戦国時代から鉄砲づくりで知られた村です。鉄砲が伝わってまもなく製造が始まり、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康も国友の鉄砲鍛冶を重く用いました。江戸時代の後半には、鍛冶の国友一貫斎が反射望遠鏡を作ったことでも知られています。
その鉄砲の村に生まれた芳助が入ったのは、刀で名を上げた新選組でした。そして慶応四年の鳥羽伏見の戦いで、新選組は新政府軍の銃と大砲の前に敗れ、芳助自身も傷を負っています。のちに土方歳三が「これからの戦は刀や槍ではだめだ」という意味のことを語ったと伝えられるのは、この戦いの後のことです。鉄砲の村の出の隊士が、刀の時代の終わりを身をもって味わったことになります。
代言人という新しい仕事
芳助が横浜で開いた代言人は、明治のはじめに生まれた新しい職業でした。人に代わって裁判所で言い分を述べる仕事で、いまの弁護士の前身にあたります。明治九年には免許の制度も整えられました。
開港場の横浜には、外国の商人を相手にした取り引きや争いが多く、代言人の仕事も少なくなかったはずです。刀で人を取り締まった元隊士が、明治には言葉と法で人を守る側に回った。明治を生きた新選組の隊士のなかでも、芳助の転身はとりわけ鮮やかなものです。
神奈川県会と、多摩
芳助が明治二十年に議員となった神奈川県会には、当時、いまの東京都の多摩地方も含まれていました。多摩が東京府に移るのは明治二十六年のことです。日野や府中、調布といった新選組のふるさとの村々は、芳助が議員を務めた県の一部だったことになります。
明治の多摩は自由民権運動がさかんな土地でもあり、県会はその議論の場の一つでした。近藤勇や土方歳三を支えた多摩の名主の家から、明治には民権運動にかかわる人も出ています。芳助が議員として多摩の人々とどのように向き合ったのかは分かりませんが、新選組の記憶がまだ生々しい時代に、元隊士が同じ土地の人々の代表として席を並べていたのは興味深い事実です。
生き残りの手紙が史料になる
芳助が議員仲間にあてて新選組のことを書いた手紙は、いまでは『新撰組往事実戦談書』として研究に使われています。新選組の歴史は、当事者の書き残したものが少なく、永倉新八や島田魁、中島登といった生き残りの記録に多くを頼っています。伍長として現場にいた芳助の証言は、幹部とは違う目の高さから隊を見たものとして、ほかの記録と照らし合わせる大切な手がかりになっています。
近藤芳助と関わりの深い人たち
近藤芳助のゆかりの地
- 国友村(滋賀県長浜市国友町)—生まれ故郷。鉄砲鍛冶の村。
- 母成峠古戦場—本隊とはぐれた戦いの場。
- 横浜(神奈川県横浜市)—明治以降、代言人・議員として暮らした町。
参考にした資料:近藤芳助『新撰組往事実戦談書』、Wikipedia「近藤芳助」。
勝沼から流山、板橋へと続く近藤勇の最後の日々は、近藤勇、最後の百日—甲陽鎮撫隊・勝沼の敗戦から流山の出頭、板橋の刑場までに日付の順でまとめています。
会津での新選組の戦いと、土方・斎藤の別れについては、会津の新選組—宇都宮・白河口・母成峠・如来堂、土方と斎藤が別れた夏にまとめています。
横浜の「水道先生」
明治の川村三郎(近藤芳助)は、横浜でかなりの存在でした。神奈川県会議員を四期、横浜市会議員を五期務めています。初当選は明治二十年十一月の県会の補欠選挙です。市会では常設委員の制度を建議した人として知られ、「市会の三・三郎」と呼ばれ、水道の整備に力を入れたことから「水道先生」という異名もありました。
本業は代言人、いまの弁護士にあたる仕事で、そのほかに土地家屋の賃貸業や取引所・銀行の理事も務めています。新選組の生き残りが、開港地の政治と経済のなかで働いていたことになります。亡くなったのは大正十一年七月五日で、当時の新聞は腎臓炎による尿毒症と伝えました。
新選組をもっと知る本
近藤芳助は明治まで生きて、若い人に当時を語り残した一人です。同じく晩年に語った永倉新八『新撰組顛末記』と並べて読むと、生き残った隊士たちが何を伝えたかったのかが見えてきます。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:近藤周平(諸士取調役兼監察)
次の隊士 ▶:佐伯又三郎(副長助勤)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

