| 武田観柳斎 | |||
| 職名 | 五番隊隊長 | ||
| 出身 | 出雲 | ||
| 終焉場所 | 京都 | ||
| 終焉方法 | 暗殺 | ||
軍学に通じていた為近藤に重用され、5番隊隊長に任命されます。
しかし、伊東甲子太郎一派の台頭とともに軽んじられついに除隊処分となります。
その後薩摩藩と親密になり、斎藤一に斬られました。
口舌が悪く評判が悪かったと言われています。

甲州流軍学を説いた五番隊組長
武田観柳斎は、甲州流軍学を修めた軍学者で、その知識を買われて新選組に迎えられ、五番隊組長を務めました。西洋式の兵制が広まる以前、隊の軍事教練や部隊運用の面で一定の役割を果たしたとされます。
時代に取り残された最期
しかし、やがて戦いの主役が刀槍から銃砲へと移り、西洋式の軍事が主流になると、旧来の軍学者であった武田の立場はしだいに失われていきます。隊内で孤立し、行状をめぐる疑いも重なって、最後は新選組によって粛清されたと伝えられます。時代の急激な変化に取り残された、幕末の一つの縮図ともいえる人物です。
同じ時代の記録に、斬られた場面が残っています
尾張藩士の記録『世態志』に「六月廿二日、油小路竹田街道に而元新選組武田某、肩先より大けさに切害におよび相果候」という一文があります。慶応三年六月二十二日、竹田街道の銭取橋のあたりで、肩先から大袈裟に斬られて果てた、というのです。日付も場所も斬られ方も、同じ時代の記録で裏づけられる珍しい例ですが、そこには誰が斬ったかは書かれていません。
斎藤一が斬ったという説には、無理があります
実行者を斎藤一とする説が広く伝わっていますが、慶応三年六月のこの時期、斎藤一は御陵衛士へ間者として潜り込んでいました。ですから斎藤が斬ったとするのは時期が合いません。西村兼文の『新撰組始末記』は沖田総司と篠原泰之進の名を挙げますが、こちらは日付を慶応二年九月二十八日と誤っており、武田が隊を離れた時期と殺された時期を取り違えたものとみられています。確かなのは「元新選組の武田某が慶応三年六月二十二日に竹田街道で斬られた」というところまでです。
斬られた理由も、三つに分かれます
一つは薩摩藩への内通。西村兼文の書に、近藤勇に取り入ろうとして遠ざけられたのち、薩摩藩邸に出入りしていると報じられた、とあります。二つめは倒幕の側へ近づこうとした、あるいは伊東甲子太郎への合流を断られたという説。三つめは衆道がらみで、隊士の馬越三郎に言い寄って迷惑がられ、馬越が土方歳三へ訴えたという話です。ただし三つめの出どころは子母澤寛の『新選組物語』で、子母澤の創作ではないかとも言われています。
本名は福田廣
本名を福田廣、諱を徳裕といい、松江藩の支藩である母里藩に連なる人です。近年の調べでは、嘉永五年の『大成武鑑』に母里藩の江戸詰藩士として福田廣と父の福田源右衛門の名が載っており、家の実在が確かめられました。甲州流の軍学を福島伝之助に学び、新選組では副長助勤、五番隊組長、文学師範、軍事方をつとめ、甲州流の軍学による調練を担いました。生まれた年は分かっていません。
池田屋事件の夜に出動した隊士の顔ぶれは、池田屋事件に出動した新選組隊士—近藤隊の十人と、駆けつけた土方隊・井上隊にまとめています。
新選組の役職と、それぞれを務めた隊士は、新選組の組織と役職—局長・副長・組長・監察・勘定方・伍長、誰が何を務めたのかにまとめています。
武田観柳斎の生きた時代—新選組の洋式化
甲州流の軍学者 武田観柳斎は出雲(松江藩)の出身で、甲州流の軍学を修めた人物です。新選組では五番隊の組長や文学師範を務め、近藤勇の信任を得て、隊の軍事の指導にあたりました。
時代遅れになった軍学 ところが慶応年間になると、新選組は幕府の方針に合わせて、西洋式の銃や大砲を使った訓練を取り入れ始めます。古い軍学を説く観柳斎の立場は次第に弱まり、やがて隊を離れました。慶応三年(1867)、観柳斎は京都の鴨川のほとりで暗殺されたと伝えられます。刀と軍学の時代から、銃と洋式調練の時代への移り変わりを映す人物です。
五番組長・武田観柳斎と、組長たち
慶応元年の幹部
武田観柳斎は、新選組が十の組に分けられたとき五番組の組長を務めました。甲州流の軍学を修めた武田は、隊の中で軍事の知識を持つ者として重んじられ、近藤勇の信頼も厚かったとされます。慶応元年ごろの幹部の顔ぶれは次のとおりです。
- 局長:近藤勇
- 副長:土方歳三
- 総長:山南敬助(慶応元年二月に切腹)
- 参謀:伊東甲子太郎
- 一番組:沖田総司/二番組:永倉新八/三番組:斎藤一
- 四番組:松原忠司/五番組:武田観柳斎/六番組:井上源三郎
- 七番組:谷三十郎/八番組:藤堂平助/九番組:鈴木三樹三郎/十番組:原田左之助
洋式化に取り残されて
しかし、慶応二年に幕府が長州との戦いに敗れると、新選組でも洋式の調練が取り入れられ、古い軍学の価値は急に下がりました。武田は慶応二年の秋ごろ隊を離れ、翌慶応三年六月二十二日、京都の鴨川のほとりで斬られて命を落としています。時代の移り変わりが、一人の隊士の運命を大きく変えた例でした。
参考資料:Wikipedia日本語版「武田観柳斎」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:松原忠司(四番隊隊長)
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