幕末の金の流出とは—なぜ小判が海外へ流れたのか。金銀比価1対5と1対15、4ドルが12ドルになる仕組みと小栗忠順

開港直後の横浜で、銀貨と引き換えに小判を受け取る外国の商人たち(イメージ)

この記事は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

「幕末のもしも」について
史実をふまえたうえで、「もしあのとき別の道を選んでいたら」を管理人なりに考えるシリーズです。前半は史料にもとづく史実、後半の「もしも」の部分は管理人の考え(推測)です。
開港した横浜のようすを描いた『横浜開港見聞誌』の挿絵
開港まもない横浜のようすを描いた『横浜開港見聞誌』の挿絵。外国の商人たちが押し寄せた(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

安政6年(1859年)、横浜・長崎・箱館の港が開かれると、日本からおびただしい量の金が外国へ流れ出しました。これが「幕末の金の流出」です。

原因は、日本と外国とで、金と銀の値打ちの比べ方がまったく違っていたことでした。この問題に正面から立ち向かった一人が、遣米使節の目付としてアメリカへ渡った小栗忠順です。数字の仕組みを、できるだけやさしく説明します。

目次

幕末の金の流出とは?—先に答え

項目内容
いつ安政6年(1859年)の開港から、万延元年(1860年)の貨幣改鋳まで
原因金と銀の交換比率が、日本ではおよそ1対5、外国ではおよそ1対15と、3倍も違っていた
仕組み外国の銀貨を日本の銀貨に替え、それで小判(金貨)を買って国外に持ち出すと、それだけで元手がおよそ3倍になった
どれだけ流れた10万両前後から数十万両まで、諸説ある
幕府の対策万延元年(1860年)、金の量を約3分の1に減らした万延小判を作り、流出を止めた
その副作用お金の値打ちが下がって物価が大きく上がり、庶民の暮らしを直撃。外国への反感(攘夷)が強まった

金と銀の「交換比率」が3倍違った

江戸時代の日本では、金と銀の両方がお金として使われていました。このとき、金1グラムが銀何グラム分の値打ちになるか(金銀比価)は、日本ではおよそ1対5でした。ところが、欧米やアジアの市場では、およそ1対15。外国では金がずっと高く、銀が安かったのです。

日本外国(国際相場)
金1に対する銀の量およそ5およそ15
つまり金が安く、銀が高い金が高く、銀が安い

鎖国のあいだは、この違いが問題になることはありませんでした。外国との自由な取引がなかったからです。

どうやって3倍にもうけたのか

安政5年(1858年)の日米修好通商条約には、「外国のお金と日本のお金は、同じ種類のものを同じ重さで交換する」という決まりがありました。当時アジアで広く使われていたメキシコの1ドル銀貨(洋銀)は、重さで比べると日本の一分銀3枚分になります。

メキシコの8レアル銀貨
メキシコの8レアル銀貨。「メキシコドル」「洋銀」と呼ばれ、アジアの貿易で広く使われた(写真は後の時代のもの。出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

ここからが問題です。日本では、一分銀4枚で小判1両と交換できました。すると、こんなことが起きます。

手順手もと
① メキシコ銀貨を4ドル持って横浜に来る銀貨 4ドル
② 同じ重さの一分銀に両替する(1ドル=一分銀3枚)一分銀 12枚
③ 一分銀4枚で小判1両に替える小判 3両
④ 小判を上海などへ持ち出し、国際相場で銀に替える銀貨 およそ12ドル

何もしないで、元手の4ドルがおよそ12ドル、つまり3倍になるのです。外国の商人だけでなく、外交官や軍艦の乗組員までがこぞって両替に走ったといわれます。

開港直後の横浜で、銀貨と引き換えに小判を受け取る外国の商人たち(イメージ)
開港直後の横浜。銀貨の袋と引き換えに、日本の小判が外国の商人の手に渡っていった(イメージ)
江戸時代の小判
江戸時代の小判。開港後、多くの小判が外国へ持ち出された(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

どれだけの金が流れ出たのか

流出した金の量ははっきりしておらず、10万両前後とする説から、数十万両に達したとする説まで、大きな幅があります。いずれにしても、幕府が見過ごせない規模だったことは確かです。

幕府は開港にあわせて、外国人との取引用に新しい銀貨(安政二朱銀)を作り、交換比率を改めようとしましたが、アメリカの総領事ハリスら外国側の強い抗議を受けて、すぐに取りやめています。

タウンゼント・ハリスの肖像
アメリカ総領事タウンゼント・ハリス。日米修好通商条約を結び、通貨の交換でも幕府と渡り合った(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

小栗忠順とフィラデルフィアの造幣局

万延元年(1860年)、条約の批准のためアメリカへ渡った遣米使節には、この通貨問題の交渉という役目もありました。使節の目付だった小栗忠順は、フィラデルフィアの造幣局で日本の小判とアメリカの金貨を分析させ、金の含有量を比べさせたと伝わります。

交換の仕組みそのものを改めさせることはできませんでした。それでも、数字と実物で道理を示そうとする小栗の姿は、アメリカ側に強い印象を残したといわれます。

1860年、フィラデルフィアの造幣局で小判と金貨の分析を見守る遣米使節の小栗忠順(イメージイラスト)
フィラデルフィアの造幣局で、小判と金貨の金の量を比べさせる小栗(イメージ)

▶ 万延元年遣米使節とは/新見正興・村垣範正とは何をした人物か

幕府の対策—万延小判

結局、幕府がとった対策は、日本の金貨のほうを国際相場に合わせることでした。万延元年(1860年)、それまでの小判よりも金の量を約3分の1に減らした「万延小判」を発行します。金1両の中身が3分の1になれば、3倍もうける仕組みは成り立ちません。こうして金の流出は止まりました。

それまでの小判万延小判(1860年)
金の量多い約3分の1
金の流出止まらない止まる
物価—大きく上がる

止まった代わりに—物価の高騰と攘夷

万延小判で金の流出は止まりましたが、お金の値打ちが下がったため、物価が一気に上がりました。そこへ生糸などの輸出が増えて品不足が重なり、米や日用品の値段は数年で何倍にもなったといわれます。

暮らしが苦しくなった人々の怒りは、「外国人が来たせいだ」という気持ちに向かい、外国人を打ち払おうとする攘夷の動きを強めていきました。開港をきっかけにした経済の混乱は、幕府の力を内側から弱めていったのです。

勘定奉行として、こうした混乱のあとの幕府の財政を預かったのが小栗でした。

▶ 勘定奉行とは何をする仕事?小栗忠順の役職を解説/小栗上野介の名言

大河ドラマでの見どころ

『逆賊の幕臣』では、遣米使節の渡米と、フィラデルフィアの造幣局での小判の分析が序盤の山場になるはずです。「なぜ小判をわざわざ分析させたのか」は、この金の流出の仕組みを知っておくと、ぐっとわかりやすくなります。

遣米使節を乗せたポーハタン号を描いたかわら版
遣米使節を乗せたポーハタン号を描いたかわら版(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

参考資料

  • 日本銀行金融研究所 貨幣博物館の解説ほか
  • 写真:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

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