咸臨丸【江戸幕府 バーク級武装商船 幕末軍艦】

咸臨丸
藩名 江戸幕府
藩主 徳川慶喜
船種 バーク級武装商船
機関 蒸気内車
備砲 16門
材質 木製
馬力 100馬力
写真

■ 詳細
オランダ・カンデルクで1857年完成、10万ドルで幕府に売却されました。艦長勝海舟の指揮下に太平洋を横断した快挙は有名。幕府崩壊後、榎本艦隊に参加したが、蝦夷に脱走する途中に暴風雨に遭って艦隊から脱落。

目次

オランダ生まれの「咸臨丸」と幕府海軍

咸臨丸は、幕府がオランダに発注した木造バーク型の蒸気軍艦で、1857年(安政4年)に完成しました。当初は「ヤッパン号」と呼ばれ、長崎に回航されると、開設されたばかりの長崎海軍伝習所の練習艦として、勝海舟ら伝習生の訓練に用いられました。スクリュー推進の蒸気機関と帆走を併用し、幕府海軍の草創期を支えた一隻です。

日本の軍艦として初めて太平洋を渡る

咸臨丸の名を歴史に刻んだのが、1860年(万延元年)の太平洋横断です。日米修好通商条約の批准書交換のためアメリカへ向かう遣米使節団に随行し、日本の軍艦として初めて自力で太平洋を渡ってサンフランシスコに到達しました。艦には軍艦奉行・木村喜毅を指揮官に、教授方頭取の勝海舟、通訳のジョン万次郎(中浜万次郎)、そして福澤諭吉らが乗り込み、荒天に苦しみながらも往復の航海を成し遂げています。日本人自身の手で外洋航海が可能であることを示した、象徴的な出来事でした。

戊辰戦争と悲劇的な最期

幕府の崩壊後、咸臨丸は榎本武揚の艦隊に加わって蝦夷地(北海道)を目指しますが、その途上で暴風雨に遭って艦隊からはぐれ、駿河の清水港へ漂着します。ここで新政府軍艦の攻撃を受けて乗組員の多くが命を落とし、放置された遺体を地元の侠客・清水次郎長が葬ったという逸話も伝わります。その後は北海道開拓の輸送船として使われ、1871年(明治4年)に木古内沖で座礁して、その生涯を閉じました。

咸臨丸をもっと深く——「日本人が太平洋を渡った」という話の実際

朝陽丸と二隻セットで注文された

咸臨丸は、幕府がオランダに発注したコルベット二隻のうちの一隻です。もう一隻が朝陽丸でした。価格は一隻十万ドル。1857年にキンデルダイクで竣工し、元の名を「ヤパン号」といきました。安政四年(1857年)に長崎へ届き、長崎海軍伝習所の練習艦となります。

建造 オランダ・キンデルダイク(1857年竣工)
旧名 ヤパン号
排水量 625英トン
推進 スクリュー(航行中は水線上へ引き上げる補助機関)
出力 100馬力
備砲 12門
購入価格 100,000ドル

万延元年の太平洋横断

万延元年(1860年)正月、咸臨丸は品川を出港しました。日米修好通商条約の批准書交換に向かう使節の随伴艦としての航海で、往復八十三日、一万七百七十五海里を走っています。

ただし、よく語られる「日本人だけの手で太平洋を渡った」という話は、そのままでは正確ではありません。往路には、難破した米測量船の乗組員だったブルック大尉以下アメリカ人十一名が乗り込んでいました。日本人乗員の多くは船酔いで動けず、実際の操船はアメリカ人が担ったとされます。艦長格の勝海舟自身、船室にこもりがちだったと伝わります。

もっとも、復路はアメリカ人水夫五名を雇っただけで、日本人が主体となって四十五日で帰り着いています。初めて外洋に出た国の船としては十分な成果というべきでしょう。船には福澤諭吉と中浜万次郎も乗っていました。

問題はむしろ、往路の助力が後世に過小評価されたことにあります。日本の航海技術が実態より高く見積もられ、その油断が、のちに榎本艦隊が海難で次々と艦を失う遠因になった——という見方があります。開陽丸を江差沖の暴風で失ったのは、その最たる例です。

機関を降ろされて

慶応三年(1867年)、老朽化した咸臨丸は機関を撤去され、帆走の輸送船になりました。太平洋を渡った蒸気軍艦が、動力を失って荷物運びになったのです。

慶応四年八月、榎本艦隊に加わって江戸を出るものの、銚子沖の暴風で列を離れ、下田へ漂着。九月には清水港で新政府軍の富士山丸らに捕獲されました。かつての僚艦に捕まったことになります。

木古内の沖で

咸臨丸の最期は明治四年(1871年)です。旧仙台藩片倉家の家臣ら約四百名の北海道移民を函館から小樽へ運ぶ途中、泉沢沖——現在の木古内町サラキ岬の沖で座礁し、翌日沈みました。

乗せていたのは、戊辰戦争に負けて土地を失った人々です。減封された仙台藩は家臣を養えず、多くが北海道へ渡りました。太平洋を渡った船の最後の仕事が、その敗者たちの移送でした。

沈没の原因は暴風とする説と、雇われていた米国人船長の操船に問題があったとする説があり、いまも定まっていません。サラキ岬にはいま咸臨丸のモニュメントが立ち、春にはチューリップが咲きます。

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関連する現地取材

咸臨丸が随伴した万延元年遣米使節については、こちらにまとめています。咸臨丸はサンフランシスコまでで引き返しており、使節本隊とは別行動でした。

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