2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)は、幕末の幕臣・小栗忠順が主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

水野忠徳(みずの ただのり)は、ペリー来航から開国の時代に、浦賀奉行・長崎奉行・勘定奉行・外国奉行と、外交と財政の最前線を渡り歩いた幕臣です。号は癡雲(ちうん)。開国直後に起きた金貨の大量流出ではハリスと激しく渡り合い、文久元年(1861年)には咸臨丸で小笠原諸島に渡って、日本の島であることを示しました。
明治の歴史家・川崎紫山は、水野忠徳・岩瀬忠震・小栗忠順の三人を「幕末三俊」と呼びました。大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公・小栗とは、通貨問題でも、戊辰戦争での主戦論でも、同じ側に立った人物です。
水野忠徳の大河『逆賊の幕臣』での配役は、2026年10月24日の時点ではまだ発表されていません。発表があり次第、この記事に追記します。
水野忠徳とは?—先に答え
| 読み方 | みずの ただのり(号は癡雲) |
|---|---|
| 生没 | 文化七年(1810年)〜慶応四年(1868年)七月九日。生年は文化十二年とする説もあります |
| 身分 | 旗本 |
| 何をした人 | 浦賀奉行・長崎奉行として開国期の交渉にあたり、勘定奉行・外国奉行として金貨流出の問題に取り組みました。咸臨丸で小笠原諸島に渡り、日本の領有を示しました |
| 小栗との接点 | 遣米使節に予定されながら左遷で外れ、代わって小栗が選ばれました。のちに小栗・岩瀬とともに「幕末三俊」と呼ばれます |
| 最期 | 鳥羽伏見の敗戦後、江戸城で抗戦を主張して容れられず隠居。慶応四年七月に亡くなりました |
浦賀・長崎の奉行として—開国の最前線
水野は旗本の家に生まれ、幕府の役人として実務の経験を積みました。嘉永五年(1852年)に浦賀奉行、翌嘉永六年(1853年)に長崎奉行となります。ちょうどペリーが浦賀に来航し、ロシアのプチャーチンが長崎に来た年でした。
長崎では、ロシアやイギリスの艦隊との交渉にあたり、安政元年(1854年)にはイギリスのスターリング艦隊との間で日英約定を結んでいます。また、オランダの協力を得て始まった長崎海軍伝習の準備にも関わりました。のちに幕府海軍を担う人材が育つ場所です。
勘定奉行・外国奉行—金貨の流出とハリス
安政五年(1858年)、日米修好通商条約が結ばれると、水野は新設の外国奉行に任じられました。条約で決まった通貨の交換ルールは、日本にとって大きな問題をはらんでいました。日本では金と銀の交換比率がおよそ一対五だったのに対し、海外ではおよそ一対十五。外国人は銀貨を日本に持ち込んで金貨に替えるだけで、大きな利益を得られたのです。
水野はこの危険に気づき、新しい銀貨(安政二朱銀)を発行して流出を防ごうとしましたが、ハリスら各国の代表に強く抗議され、撤回に追い込まれました。その後、幕府は小判の金の量を大きく減らす万延の改鋳で、流出をようやく止めます。この問題は幕末の金の流出とはで詳しく扱っています。
一年後の万延元年(1860年)、遣米使節としてアメリカに渡った小栗忠順は、フィラデルフィアの造幣局で日米の金貨を分析させ、交換比率の不公平を数字で確かめようとしました。水野が日本で戦った通貨の問題を、小栗はアメリカで追いかけたことになります。
なお、万延元年の遣米使節には、はじめ外国奉行の水野忠徳や永井尚志らが予定されていました。ところが安政六年、水野は横浜でのロシア人殺傷事件の責任を問われて左遷され、永井も一橋派として役職を外されます。代わって選ばれたのが、新見正興・村垣範正、そして目付の小栗忠順でした。
小笠原諸島へ—咸臨丸の航海
文久元年(1861年)、外国奉行に返り咲いた水野は、咸臨丸に乗って小笠原諸島に向かいました。当時の小笠原には欧米系の住民が暮らしており、イギリスやアメリカも領有に関心を示していました。
水野は父島に役所を置き、島の住民に日本の領土であることを伝え、各国にも通告しました。現在の小笠原諸島が日本の領土であることの、出発点のひとつとされる出来事です。この航海に咸臨丸を出したのは、軍艦奉行の木村喜毅らの幕府海軍でした。
主戦論と最期
その後も水野は、幕府の外交や財政について意見を述べ続けました。慶応四年(1868年)正月、鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜が江戸に戻ると、江戸城での評定で水野は抗戦を強く主張します。同じ席で主戦論を唱えたのが小栗忠順でした。
慶喜は恭順を選び、小栗は罷免されて上州権田村へ、水野も隠居しました。水野は同じ年の七月、江戸開城後の混乱の中で亡くなっています。悲憤のうちの死だったと伝えられます。小栗が斬られたのは、その二か月余り前のことでした。
大河『逆賊の幕臣』と水野忠徳
水野は、遣米使節の人選、通貨問題、そして戊辰戦争での主戦論と、小栗の生涯の大事な場面に何度も関わる人物です。2026年10月24日の時点で配役は発表されていませんが、物語に登場する可能性は高いと考えられます。ただし、これは推測です。
水野忠徳のゆかりの地
- 小笠原諸島・父島(東京都小笠原村)。文久元年に水野が上陸し、役所を置いた島です
- 長崎奉行所跡(長崎県長崎市、長崎歴史文化博物館に一部が復元されています)
小栗忠順のゆかりの地をめぐる
小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。
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- 小栗上野介ゆかりの地 ― 東京・横須賀・埼玉・群馬をたどる(まとめ)
- 倉渕・東善寺をめぐるモデルコース(都内発・車で1泊2日。墓所の東善寺、最期の地、普門院の首塚)
- 横須賀の日帰りコース(都内発。軍港めぐりで、小栗が始めた造船所を海から見られます)
倉渕(高崎市)の東善寺や最期の地は駅から離れているので、高崎駅前でレンタカーを借りると回りやすくなります。各社の料金はじゃらんレンタカーで比べられます(PR)。
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小栗忠順をもっと知る本
記事の内容をもっと知りたい方に、小栗忠順を扱った本を紹介します。
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▶ 小栗忠順のゆかりの地を歩く(現地取材)
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▶ あわせて読みたい—水野忠徳と同じ時代の人々
参考資料
川崎紫山『幕末三俊』、外務省外交史料館「日本外交の礎を築いた人々」、笹川平和財団 島嶼資料センター「小笠原諸島の領有」、万延元年遣米使節子孫の会の年表、コトバンク「水野忠徳」。



