小栗忠順と勝海舟—同じ幕府に仕えた二人は、なぜ正反対の道を選んだのか

横須賀の岸壁に並ぶ護衛艦を対岸から

2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の主人公が小栗忠順です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

大河ドラマ『逆賊の幕臣』の配役:
松坂桃李さんが小栗忠順を演じます(主演)(2025年3月3日発表)。
大沢たかおさんが勝海舟を演じます(2025年10月23日発表)。

幕末の幕府を支えた人物として、小栗忠順(小栗上野介)と勝海舟の二人はよく並べて語られます。片や徹底抗戦を説いて罷免され、故郷で斬られた男。片や江戸城無血開城をまとめ、明治まで生き延びた男。あまりに対照的なので、二人の関係はしばしば「宿敵」として描かれてきました。ただ、実際に史料を当たっていくと、その「宿敵」像はかなりの部分が後世に作られたものだと分かってきます。二人が正面から論争した記録は、意外なほど見つかりません。ここでは、確かめられることと確かめられないことを分けながら、二人の距離を測ってみたいと思います。

目次

同じ使節に加わり、違う船に乗った

二人の名前が最初に同じ舞台にそろうのは、安政七年・万延元年(1860年)の遣米使節です。日米修好通商条約の批准書を交換するため、幕府はアメリカへ使節を送りました。正使は新見正興、副使は村垣範正、そして目付として加わったのが小栗忠順でした。ここで注意しておきたいのは、二人は同じ船に乗っていないということです。使節の本体はアメリカ海軍の軍艦ポーハタン号に乗りました。小栗もその一人です。勝海舟が乗ったのは、随伴していった幕府の咸臨丸のほうでした。

咸臨丸の最高責任者は軍艦奉行の木村喜毅(芥舟)で、勝の役職は「軍艦操練所教授方頭取」です。よく「勝海舟が咸臨丸の艦長として太平洋を渡った」と言われますが、艦長という正式な職名があったわけではありません。咸臨丸は日本とサンフランシスコを往復しただけで、アメリカ本土での交渉には関わっていません。

一方の小栗は、ポーハタン号でアメリカに渡り、帰りはナイアガラ号で大西洋・インド洋をまわって帰国しました。結果として地球を一周したことになります。使節としての実務も、勝とは比べものにならないほど重いものでした。金銀の交換比率をめぐる交渉のため、フィラデルフィアの造幣局で日本の小判の分析実験まで行っています。

咸臨丸の話は、後から膨らんだ

咸臨丸の航海については、戦前の修身教科書が「日本人だけの力で太平洋を渡った」と教えたことから、実態以上に美化された経緯があります。同乗していたアメリカ海軍のブルック大尉が残した日記には、勝が航海中ほとんど船室で寝込んでいたことが記されています。当時のサクラメントの新聞も、勝を「航海中ほとんど病気だった艦長」と書きました。

小栗の菩提寺である東善寺は、こうした史料を並べて「咸臨丸神話」を厳しく批判しています。ただ、これは小栗を顕彰する立場からの主張でもあります。勝が船酔いに苦しんだこと自体は史料から見て確かですが、まったく役に立たなかったとまで断定できる材料はありません。どちらの言い分も、割り引いて読む必要があります。

横須賀製鉄所と「土蔵付売家」

小栗の事業として最も知られているのが、横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)です。文久三年(1863年)に建設案を出し、幕閣の反対を押し切って十四代将軍・徳川家茂の裁可を得ました。着工は慶応元年(1865年)十一月十五日、費用は四年継続で総額二百四十万ドル、責任者はフランス人技師のヴェルニーです。建設費の巨額さを心配した栗本鋤雲に対し、小栗はこう答えたと伝わります。栗本自身が明治になってから『匏庵十種』に書き残したものです。

いよいよ出来の上は旗号に熨斗を染出すもなお土藏付売家の栄誉を残すべし

幕府が倒れて家屋敷を売ることになっても、蔵の付いた家なら買い手がつく。造船所という「蔵」を残しておけば、幕府が滅んでも日本のためになる、という意味です。実際そのとおりになりました。工事は明治政府にそのまま引き継がれ、明治四年(1871年)に第一号ドックが完成しています。

この製鉄所をめぐって「勝海舟が反対した」という話がよく語られます。船を作る前に人を育てるべきだ、イギリスでさえ海軍の人材育成に三百年かかっている、といった主張だったとされます。ただ、この発言の出どころを、私はわかっていません。『氷川清話』や『海舟座談』のどこにあるのか、示している資料が見当たらないのです。それどころか、横須賀市の公式サイトも東善寺の建設経緯のページも、勝海舟にはひとことも触れていません。幕府内に「修理だけできる施設でよい」という反対論があったこと自体は確かですが、それを勝の主張として名指しできるかどうかは別の話です。

慶応四年正月、江戸城の評定

二人の対立として最もよく描かれるのが、鳥羽伏見の敗戦後、江戸城で開かれた評定の場面です。慶応四年(1868年)正月十二日、徳川慶喜が開陽丸で江戸に戻り、以後たびたび評定が開かれました。小栗が主戦論を、勝が恭順論を唱え、慶喜は恭順を選んだ、という筋書きです。小栗の作戦案として伝わるのは、箱根を降りてくる薩長軍を陸軍で迎え撃ち、同時に榎本武揚の艦隊を駿河湾に突入させて後続の補給部隊を艦砲射撃で叩く、という挟撃策でした。

この作戦案は多くの本やサイトに同じ文言で載っています。しかしどの資料も、典拠となる史料の名前を挙げていません。のちに大村益次郎が「この策が実行されていたら我々の首はなかった」と評したという話も、出典が示されたものを見つけられませんでした。小栗の構想そのものを否定する材料もありませんが、伝えられている以上のことは言えないというのが正直なところです。

そして肝心の点として、小栗と勝がこの評定の場で直接やりあったことを示す一次史料は、見つかっていません。二人が同じ議題をめぐって反対の立場にいたことは確かですが、面と向かって論争する場面は、小説やドラマが作り上げた絵かもしれません。

罷免と起用の、二日間

小栗が幕府の役職を解かれたのは慶応四年正月十五日のことでした。勝手掛老中の松平康英から呼出の切紙を受け、江戸城の芙蓉の間で、老中・酒井忠惇と若年寄・稲葉正巳から御役御免を申し渡されます。解かれたのは勘定奉行と陸軍奉行でした。この経緯は日付も場所も申し渡した人物名も残っており、確度の高い記録です。

その二日後、正月十七日に勝海舟が海軍奉行並に就任します。さらに正月二十三日には陸軍総裁へ昇進しました。小栗が去った席に、入れ替わるように勝が座ったことになります。この二日という近さが、「勝が小栗を追い落とした」という物語を生む土壌になりました。ですが、勝が小栗の罷免に関与したことを示す史料は、一件も見つかっていません。罷免を決めたのは慶喜自身です。家臣たちが小栗の主戦論に引きずられることを慶喜が恐れた、という説明はよくなされますが、これも推測の域を出ません。

罷免された小栗は正月二十八日に上野国群馬郡権田村への土着願を出し、二月末に江戸を発ちました。渋沢成一郎から彰義隊の隊長に推されましたが、断っています。慶喜に薩長と戦う意思がない以上、大義名分のない戦いはしない、というのが理由でした。閏四月六日、取り調べもないまま烏川の水沼河原で斬られます。四十二歳でした。

▶ 「主人公・小栗忠順の生涯」の記事

勝は小栗をどう見ていたか

勝が小栗について語ったとされる言葉のうち、複数の資料がほぼ同じ文言で伝えているものがあります。『氷川清話』にあるとされるものです。

小栗上野介は幕末の一人物だよ。あの人は精力が人にすぐれて、計略に富み、世界の大勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無比の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似ていたよ。あれは三河武士の長所と短所とを両方具えておったのよ。しかし度量の狭かったのは、あの人のためには惜しかった

能力を高く買いながら、度量が狭かったと惜しんでいます。勝らしい言い方です。ただ『氷川清話』そのものが、勝の談話を新聞記者らが筆録・編集したもので、成立の経緯に問題を抱えたテキストです。江藤淳・松浦玲による校訂版が原資料との異同を精査していますが、そこに載る言葉をそのまま勝の肉声として扱うのは慎重であるべきだとされています。

なお、勝の小栗評として広まっている言葉のうち、「およそ幕臣中第一の人物」「あれは謀ばかりで」といったものは、出どころはまったくわかっていません。後者については、西郷隆盛が小栗を「偉大なる権謀家」と評したという話との混同かもしれません。ただしその西郷の言葉も出典が示されていません。

遺族を支えたのは、勝ではなかった

「小栗の死後、勝が遺族の面倒を見た」という話も広く語られています。しかし、これもわかっていません。調べたどの資料にも、勝の名前は出てきません。

小栗は死の直前、母のくに子、身重の妻の道子、養女の鉞子を、面識のあった会津藩の横山常守を頼らせて会津へ逃がしました。道子は善光寺参りに扮して会津にたどり着き、松平容保の計らいで藩の野戦病院に収容されます。明治元年六月十日、そこで女児を産みました。国子と名づけられます。

江戸に戻った遺族を引き取ったのは、三野村利左衛門でした。かつて小栗家に奉公していた縁のある人物で、このとき三井の大番頭になっていました。三野村は自邸に遺族を匿い、明治十年に自分が亡くなるまで、終生面倒を見続けています。道子が没したあと、娘の国子を引き取ったのは大隈重信・綾子夫妻でした。綾子は小栗の従姉妹にあたり、幼いころ小栗家で育った人です。

勝が旧幕臣の救済に広く尽力したこと自体は事実ですから、そこから生まれた混同なのかもしれません。ですが、小栗の遺族を支えた人物として名前を挙げるべきは、勝海舟ではなく三野村利左衛門と大隈重信です。

埋蔵金伝説について

いわゆる「徳川埋蔵金」の話にも、小栗の名前が出てきます。江戸城が開城したとき、新政府が期待していた幕府の御用金は金蔵になく、幕府が隠したのだと考えられました。小栗が利根川づたいに赤城山へ運び込んだ、という流言が広まります。

小栗が江戸城開城にともなう処分者のなかで唯一斬首という極刑になったことが、この話に妙な信憑性を与えてしまいました。ですが、これを裏づける根拠は今日まで出てきていません。そもそも幕末の幕府財政は深刻な難局にあり、軍備増強に金を注ぎ込んでいた状況で、隠しておける余剰などなかったと考えるのが自然です。ちなみに横須賀製鉄所の建設費も、埋蔵金のたぐいではなく、万延二分金などの貨幣を増鋳して得た発行益で賄われたとされています。なお、この埋蔵金伝説と勝海舟を結びつける資料は見当たりませんでした。

東善寺にある小栗上野介忠順と小栗又一忠道の墓

東善寺の墓所。忠順と養子の又一忠道が並んで刻まれています。勝海舟の墓は、東京の洗足池のほとりにあります。

二人を分けたもの

小栗と勝の違いは、性格や好き嫌いの話ではないように思います。小栗が構想していたのは、幕府が主体となって中央集権的な近代国家を作ることでした。フランスと結び、製鉄所を築き、軍制を洋式に改め、パリ万博を機に六百万両の国債発行まで計画しています。この国債計画は、薩摩藩が琉球と連名で万博に出展し「幕府も薩摩と同格の一地方政権にすぎない」と主張したために頓挫しました。

勝が見ていたのは、もっと別の絵でした。幕府という枠にこだわらず、雄藩を含めた枠組みで日本をまとめる。そのためには徳川が引くこともやむを得ない。江戸城の無血開城は、その考えの延長線上にあります。勝が後年、「小栗は初めはたいそう自分をひいきにしてくれたが、借金の一件から自分を仇敵のように扱った」と述べたと伝える資料もあります。フランス借款をめぐって二人が決裂したことを示す証言ですが、これも出典は見つかっていません。

確かなのは、二人が同じ幕府に仕えながら、まったく違う地図を持っていたということです。そしてどちらの地図も、それぞれの意味で日本に残りました。小栗が残した造船所は明治の海軍と造船業の基礎になり、勝が守った江戸は焼かれずに東京になりました。

小栗忠順のゆかりの地をめぐる

小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。

倉渕(高崎市)の東善寺や最期の地は駅から離れているので、高崎駅前でレンタカーを借りると回りやすくなります。各社の料金はじゃらんレンタカーで比べられます(PR)。

泊まりがけで回るなら、宿は高崎駅の周辺か、倉渕から車で40〜50分ほどの伊香保温泉が便利です。横須賀は横須賀中央駅のまわりに宿が集まっています。空き室はじゃらんnet(高崎駅周辺・伊香保温泉・横須賀中央)で探せます(PR)。

小栗忠順をもっと知る本

記事の内容をもっと知りたい方に、小栗忠順を扱った本を紹介します。

※この欄の商品リンクはアフィリエイトリンク(PR)です。価格は掲載時点のものです。

勝海舟が晩年を過ごした洗足池の別邸跡と墓、勝海舟記念館は、【現地取材】勝海舟記念館と洗足池で写真とともに紹介しています。

2027年NHK大河ドラマ

『逆賊の幕臣』大河ドラマ特集

放送日・キャスト28人と相関・あらすじ・見どころから、主人公・小栗忠順の生涯とゆかりの地の現地写真まで、1ページで徹底解説しています。

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この記事の情報源

横須賀市公式サイト「横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)」、千代田区公式サイト「千代田の人々」、東善寺(小栗上野介の菩提寺)公式サイト、群馬県立図書館「小栗上野介忠順関連資料リスト」、栗本鋤雲『匏庵十種』、勝海舟『氷川清話』(江藤淳・松浦玲編、講談社学術文庫)、高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新』(岩波書店)、村上泰賢編『小栗忠順のすべて』(新人物往来社)、マイケル・ワート『明治維新の敗者たち—小栗上野介をめぐる記憶と歴史』(野口良平訳、みすず書房)。
出典が確認できなかった逸話については、その旨を本文に明記しました。誤りにお気づきの際はご指摘いただけますと幸いです。

現地取材

【現地取材】東善寺と小栗上野介の墓 ― 首を取り返した村、雨の権田を歩く
群馬県高崎市倉渕町権田。墓、裏山の本墓、横須賀から来た胸像、そしていま境内に建ちつつある記念館を訪ねました。

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