飯能戦争とは?振武軍が能仁寺に立てこもり半日で敗れた戊辰戦争を図解でわかりやすく—参加した藩・兵力・武器・渋沢平九郎の最期

埼玉県飯能市。天覧山のふもとに建つ禅寺・能仁寺は、いまは静かな名刹ですが、慶応4年5月23日、この寺は旧幕府の部隊「振武軍」の本陣として新政府軍の砲撃を受け、焼け落ちました。上野戦争のわずか8日後に起きた、埼玉県内でただ一つの本格的な戦い。それが「飯能戦争」です。

この記事では、飯能戦争がなぜ起き、誰がどれだけの兵と武器で戦い、どう終わったのかを、進軍図とイラストで詳しく解説します。振武軍を率いた渋沢成一郎の生涯や、直前の上野戦争とあわせてお読みください。

目次

飯能戦争とは?ひとことで言うと

彰義隊から分かれた渋沢成一郎らの「振武軍」が、飯能の能仁寺に立てこもり、川越に集まった新政府軍に攻められて半日ほどで敗れた戦いです。上野戦争とあわせて、関東での旧幕府方の抵抗はこれでほぼ終わりました。

日時慶応4年5月23日(1868年7月12日)。未明に開戦し、昼ごろまでに大勢が決した(午後3時ごろとする資料もある)
場所武蔵国高麗郡飯能村とその周辺(現在の埼玉県飯能市・狭山市・入間市)
旧幕府側振武軍(頭取・渋沢成一郎、副頭取・尾高惇忠、参謀・渋沢平九郎ら)。本陣は能仁寺
新政府側大村・佐土原・福岡・久留米・岡山・川越などの藩兵。忍・岩槻の兵も加わったとされる
兵力(おおよそ)振武軍 約500人 対 新政府軍 約3,000人。どちらも資料によって大きく違う(くわしくは下の「両軍の顔ぶれと兵力」)
結果新政府軍の勝利。能仁寺など4つの寺と民家約200軒が焼け、振武軍は秩父・上州方面へ散った

なぜ飯能で戦いが起きたのか

彰義隊から分かれた振武軍

慶応4年2月、徳川慶喜を守るために結成された彰義隊は、頭取の渋沢成一郎と副頭取の天野八郎の対立で割れました。慶喜が水戸へ退いたあと、成一郎は江戸を離れて態勢を立て直すべきだと主張し、上野に残って戦うべきだという天野と譲りませんでした(彰義隊とは)。

4月、成一郎は同志とともに彰義隊を離れ、江戸の西の田無村(現在の東京都西東京市)に移ります。はじめは100人ほどでしたが、まもなく300人ほどにふくらみました。閏4月、田無の西光寺を本陣として、この部隊は「振武軍」と名乗ります。武を振るう軍、という勇ましい名前でした。

上野へ向かい、引き返す

5月15日、上野で彰義隊と新政府軍の戦いが始まったという知らせが届きます(上野戦争とは)。振武軍は援軍として上野へ向かいますが、途中で彰義隊がすでに壊滅したことを知り、引き返しました。このとき、上野から落ちのびてきた彰義隊や臥龍隊の兵が振武軍に合流しています。

なぜ飯能だったのか

江戸の近くにとどまるのは危険でした。振武軍は西へ移り、5月18日に飯能に入ります。飯能が選ばれたのには理由がありました。

  • 一帯はもともと一橋家の領地で、成一郎は一橋家に仕えていたころ、この地方で農兵を集める仕事をしており、土地に詳しかった
  • 秩父や甲州へ抜ける道の入り口で、いざとなれば山へ退くことができた
  • 能仁寺をはじめ大きな寺が多く、兵を泊める場所があった

けれども、上野の彰義隊を片づけた新政府軍にとって、江戸から一日の距離にいる旧幕府の部隊を放っておく理由はありませんでした。新政府軍は川越に兵を集め、飯能へ向かいます。

両軍の顔ぶれと兵力

振武軍の主な人物

人物役目どんな人か
渋沢成一郎頭取彰義隊の初代頭取。渋沢栄一の従兄で、一橋家から幕臣になった
尾高惇忠副頭取(軍師・中軍の将とする資料も)成一郎・栄一の従兄で学問の師。のちに富岡製糸場の初代場長
渋沢平九郎参謀(右軍の頭取とする資料も)尾高惇忠の弟で、パリへ渡った渋沢栄一の見立て養子。当時22歳
野村良造・山田劉八郎ほか幹部旧幕臣など。くわしい役職は伝わっていない

振武軍の兵は、成一郎とともに彰義隊を離れた旧幕臣のほか、水戸家や酒井雅楽頭家の家臣、菜葉隊などが加わった寄り合いの部隊でした。そこへ上野から落ちのびた彰義隊の兵が合流しています。

新政府軍の諸藩

攻め手の新政府軍は、西国の諸藩と、地元の関東の藩の兵の連合軍でした。参加した藩は資料によって少しずつ違いますが、おおむね次のとおりです。

藩地方この戦いでの動き(わかる範囲)
大村藩肥前(長崎県)野田村方面から進み、能仁寺への総攻撃に加わる
佐土原藩日向(宮崎県)未明に笹井河原で振武軍を急襲。能仁寺の総攻撃にも加わる
福岡藩筑前(福岡県)双柳村方面から進み、智観寺を砲撃して突入
久留米藩筑後(福岡県)福岡藩とともに双柳村・智観寺方面
岡山藩備前(岡山県)観音寺方面。観音寺に火を放つ
川越藩武蔵(埼玉県)出撃の拠点・川越城の藩。鹿山村方面
忍藩・岩槻藩武蔵(埼玉県)兵を出したとされる
広島藩安芸(広島県)戦いのあと、山へ逃れた振武軍を追った

兵力を比べる

振武軍新政府軍
兵力の説400〜500人/約1,500人。飯能の本陣・能仁寺にいたのは約150人とする記録もある2,000〜3,000人/約3,500人
指揮渋沢成一郎・尾高惇忠ら諸藩の連合。全体の指揮官の名前ははっきりしない
拠点能仁寺(本陣)と、観音寺・智観寺・広渡寺などの寺川越城を出て、扇町屋に集結

振武軍の人数がこれほど食い違うのは、出入りの多い寄り合いの部隊だったうえ、周りの村から人足や農兵として集められた人々を数に入れるかどうかで、記録によって差が出るためと思われます。いずれにしても、新政府軍は振武軍の数倍の兵を用意していたことは確かです。

武器を比べる

振武軍新政府軍
小銃田無にいたころ、幕府の伝習隊の屯所からミニエー銃300丁と弾丸を手に入れたとされる。ほかは旧式の銃や刀・槍西国諸藩はミニエー銃やエンフィールド銃などの洋式銃が主力だったとみられる(この戦いでの各藩の銃の記録は見つからなかった)
大砲記録が見つからない大砲を持ち込み、智観寺に2発、能仁寺の本堂の屋根に2発を撃ちこんだと伝わる。四斤山砲のような軽い野戦砲だった可能性が高い
そのほか天覧山に物見を置き、のろしで合図夜明け前の奇襲、複数の方向からの同時攻撃

振武軍もミニエー銃を手に入れていたとはいえ、それは兵の一部にすぎませんでした。数でも大砲でも、新政府軍が大きく上回っていたのです。

戦いの流れ ― 夜明けから昼まで

飯能戦争の進軍図。田無から箱根ヶ崎を経て飯能に入った振武軍と、川越から扇町屋・笹井を経て入間川を渡り飯能へ攻め込む新政府軍、顔振峠・黒山への敗走路
飯能戦争の進軍図(赤=新政府軍、青=振武軍)。位置関係はおおよそです

振武軍の布陣

飯能に入った振武軍は、町の寺々に分かれて陣を構えました。

  • 能仁寺:本陣。天覧山のふもと、町の北の高台
  • 観音寺:前軍を率いる山中昇らが入る(60人とも150人とも)
  • 広渡寺:野村庄三郎を頭に約40人
  • 智観寺・真能寺・玉宝寺なども屯所として使われた
  • 天覧山:物見を置き、敵が来ればのろしを上げる

5月23日未明:笹井河原の奇襲

新政府軍は、入間川沿いの扇町屋(現在の入間市)に集まっていました。5月23日の未明、まだ暗いうちに、佐土原藩の兵が入間川の笹井河原(現在の狭山市)で振武軍を急襲し、戦いが始まります。ほぼ同じころ、振武軍のほうも扇町屋へ夜襲をしかけようとしていましたが、うまくいきませんでした。

夜明け:四方から飯能へ

夜が明けると、新政府軍はいくつもの方向から飯能へ押し寄せました。

  • 大村藩・佐土原藩は野田村のはずれで狙撃を受けながら前進
  • 福岡藩・久留米藩は双柳村のはずれで激しい撃ち合いになる
  • 川越藩は鹿山村で銃撃を受ける
  • 聖天林では新政府軍が攻撃を受けるが、大砲と小銃で撃退

振武軍は各地で抵抗しましたが、数でまさる新政府軍を押し返すことはできませんでした。

寺々の陥落と能仁寺の炎上

新政府軍は振武軍の陣地を一つずつ落としていきます。福岡藩と久留米藩は智観寺に大砲を撃ちこんで突入しましたが、振武軍はすでに退いたあとでした。岡山藩は観音寺に火を放ちます。そして大村藩と佐土原藩が本陣の能仁寺に総攻撃をかけ、本堂の屋根には砲弾が命中しました。

能仁寺は炎に包まれ、振武軍は総崩れとなって、北西の山の中へ逃げていきました。戦いは昼ごろまでにほぼ終わったとされますが、午後3時ごろまで続いたとする資料もあります。

能仁寺と飯能の町が燃えるなか、川を渡って攻め込む新政府軍と山へ退く振武軍(イラスト)
燃える能仁寺と飯能の町。振武軍は山へ退いた(イメージイラスト)

戦いのあと

焼けた寺と町

この戦いで、能仁寺・観音寺・智観寺・広渡寺の4つの寺と、飯能とまわりの村の民家約200軒が焼けました。住民にも犠牲者が出たと伝わりますが、人数ははっきりしません。両軍の死傷者の数も、確かな記録は見つかっていません。戦いに巻きこまれた飯能の人々にとっては、ある日突然、町が戦場になったのです。

渋沢平九郎の最期

顔振峠の茶屋の前で、農民の姿に着替えて振り返る若い武士(イラスト)
顔振峠の茶屋で農民に姿を変えた渋沢平九郎(イメージイラスト)

振武軍の参謀・渋沢平九郎は、敗走の途中で仲間とはぐれ、ひとりで顔振峠を越えました。峠の茶屋で農民の姿に変装し、黒山村(現在の越生町)へ下ったところで、新政府軍の兵と出くわします。斬り合いになり、深手を負った平九郎は、川岸の岩の上で自刃しました。22歳でした(自刃は戦いの翌日の5月24日とする資料もあります)。

平九郎の首は今市宿にさらされ、体は村人たちの手で黒山の全洞院に葬られました。明治6年、平九郎を養子としていた渋沢栄一が、遺骨を東京・谷中の墓地へ移しています。いま自刃の地は越生町の史跡として守られています。

成一郎と惇忠のその後

頭取の渋沢成一郎は上州へ逃れ、そのあと榎本武揚の艦隊に加わって箱館戦争まで戦いました(箱館戦争とは)。副頭取の尾高惇忠は郷里の血洗島へ戻り、明治になると新政府に招かれて、群馬県の富岡製糸場の初代場長をつとめます。旧幕府の側で戦った人が、明治の日本の近代化を支える仕事についたのです。

この戦いが示したもの

飯能戦争は、上野戦争の「続き」でした。上野で敗れた彰義隊の兵が加わり、上野を落とした新政府軍がそのまま兵を向けた戦いだったからです。この二つの戦いで、関東での旧幕府方の抵抗はほぼ一掃されました。

そしてこの戦いは、渋沢家の物語でもあります。振武軍を率いた成一郎と尾高惇忠、自刃した平九郎は、みな渋沢栄一の親族でした。栄一がパリにいたあいだに、故郷の従兄弟たちは旧幕府の最後の戦いを飯能で戦っていたのです。のちに日本の近代化の旗振り役となる栄一の陰に、この戦いで散った若者がいたことを、飯能の寺々はいまも伝えています。

現地を歩く ― 飯能戦争の史跡

  • 能仁寺(飯能市飯能1329):振武軍の本陣。開山堂の前に、昭和12年(1937年)に建てられた「振武軍の碑」があります。西武池袋線飯能駅北口からバス「天覧山下」下車、徒歩約5分
  • 天覧山:振武軍が物見を置いた山。能仁寺の裏から登れます
  • 観音寺・智観寺・広渡寺:振武軍の陣が置かれ、戦いで焼けた寺。飯能市立博物館が「飯能戦争の跡を訪ねるコース」のマップを出しています
  • 渋沢平九郎自刃の地(越生町黒山):全洞院から約400m。全洞院には平九郎の墓があります

あわせて読みたい

参考にした資料

  • 飯能市立博物館「飯能戦争の跡を訪ねるコース」
  • Wikipedia「飯能戦争」「渋沢平九郎」「渋沢成一郎」
  • ぶぎん地域経済研究所のレポート(飯能戦争)

文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです

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