天野八郎とは何をした人物か—上州の名主の子が彰義隊の頭取になり、上野の山に残って戦った。獄中の『斃休録』と円通寺の墓

天野八郎は、上野戦争で彰義隊を率いた頭取です。上州の名主の家に生まれた農民の子で、旗本でも幕臣でもありませんでした。その人が、徳川家のために最後まで上野の山を降りず、戦いに敗れ、獄中で38年の生涯を終えます。

天野八郎の肖像
天野八郎(出典:『幕末・明治・大正 回顧八十年史』、Wikimedia Commons、パブリックドメイン)
目次

先に答え—天野八郎とは

生没年天保2年(1831)〜明治元年11月8日(1868年12月21日)。享年38
出身上野国甘楽郡磐戸村(現在の群馬県南牧村)。名主・大井田家の次男
名前幼名は林太郎。諱は忠告、号は斃止(諱を「忠恕」とする辞典もある)
何をした人彰義隊の副頭取、のちに頭取として、上野戦争で新政府軍と戦った
最期江戸に潜伏中、密告で捕らえられ、獄中で病死

上州の名主の子から「天野八郎」へ

天野八郎は、天保2年、上野国甘楽郡磐戸村(いまの群馬県南牧村)の名主・大井田吉五郎忠恕の次男として生まれました。幼名は林太郎です。若いころから剣術の直心影流を学び、地元には、近くの黒滝山不動寺で修行したという言い伝えも残っています。

江戸に出た林太郎は、慶応元年(1865)に江戸の定火消与力・広浜喜之進の養子になりますが、翌年には離縁しています。そのあと自分から「旗本天野氏」を名乗るようになりました。これが「天野八郎」の始まりです。

天野が正式な幕臣だったかどうかは、資料によって書き方が違います。「幕臣の天野家を継いだ」とする辞典がある一方で、「旗本ではなかった」「記録の上では幕臣ではない」とする資料もあります。少なくとも、生まれながらの幕臣でなかったことは確かです。徳川家への恩義で生きてきた家の人ではない人物が、最後まで徳川のために戦った。天野八郎の生涯のいちばん不思議なところです。

彰義隊の副頭取に

慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜が江戸に戻り、上野の寛永寺で謹慎に入ります。慶喜を守ろうと旧幕臣たちが集まり、2月23日、浅草本願寺で「彰義隊」の名前が決まりました。入札(投票)で頭取に選ばれたのは一橋家以来の慶喜の家臣・渋沢成一郎、副頭取に選ばれたのが天野八郎です。

上野公園に立つ彰義隊の墓
上野公園の「彰義隊の墓」。明治になって、生き残った隊士たちの手で建てられた(出典:Wikimedia Commons、撮影:酒場の金魚、パブリックドメイン)

結成の中心にいたのは天野たちで、渋沢を頭取に立てた、とする辞典もあります。隊の人数はみるみるふくらみ、天野はその実務をとりしきる立場になっていきました。

渋沢成一郎との対立

4月、江戸城が明け渡され、慶喜は水戸へ退きます。守るべき主君が江戸からいなくなったのです。ここで隊の意見が割れました。

  • 渋沢成一郎:江戸を離れ、日光へ退いて態勢を立て直すべきだ
  • 天野八郎:江戸に残り、上野で徳川家を守り続けるべきだ

対立は深まり、天野派が渋沢の暗殺を企てたという話まで伝わっています。結局、渋沢は隊を離れ、天野が実権を握りました。彰義隊は、輪王寺宮のいる寛永寺にとどまり続けることになります。

上野戦争—振り返ると、誰もいなかった

5月15日、新政府軍の総攻撃が始まります(上野戦争とは)。正面の黒門口が危ういと見た天野は、40人あまりを連れて黒門の上の山王台へ駆け上がりました。ところが、振り返ると、ついてきたはずの者が誰もいなかったといいます。

天野はのちに獄中で、このときのことを「徳川氏の柔極まるを知る」と書き残しました。徳川の家臣たちの弱さを、身にしみて知ったというのです。幕臣の家に生まれたわけではない天野の、痛烈なひとことでした。戦いはその日のうちに終わり、彰義隊は敗れて散り散りになります。

潜伏、捕縛、獄中の『斃休録』

戦いのあと、天野は江戸の本所石原の炭屋・文次郎の家に身を隠しました。けれども7月13日、密告を受けた新政府側の兵に踏み込まれ、捕らえられます。屋根伝いに逃げようとして、額に弾を受けたとも伝わります。

獄中で天野は、自分の歩みと上野の戦いを『斃休録』という記録に書き残しました。原本は国立国会図書館にあり、のちに山崎有信の『彰義隊戦史』に全文が収められています。彰義隊の内側から書かれた、数少ない記録です。

明治元年11月8日、天野八郎は獄中で病死しました。肺炎だったともいわれます。38歳でした。

天野八郎の墓—円通寺

天野の遺体は、刑死者を葬る小塚原に捨てられたといいます。3年後、同志たちがひそかに墓石を建て、明治23年(1890)には、上野戦争の戦死者が葬られた南千住の円通寺に改葬されました。墓のそばには榎本武揚の題字による碑が建っています。円通寺には、上野の戦いで弾痕を受けた寛永寺の黒門も移されています。

南千住の円通寺に移された寛永寺の黒門。柱や扉に弾痕が残る(イラスト)
円通寺に移された寛永寺の黒門。上野戦争の弾痕がいまも残る(イメージイラスト)

天野八郎という人を考える

彰義隊の頭取に、生まれながらの幕臣ではない人がなっていた。これは、幕末という時代をよく表していると思います。新選組の近藤勇や土方歳三も、武蔵の農民の出でした。家柄で決まっていた武士の世界の最後に、徳川のためにいちばん激しく戦ったのが、もともとは武士ではなかった人たちだったのです。

山王台で振り返って誰もいなかったとき、天野は何を思ったのでしょうか。それでも山を降りず、江戸に残って戦ったことを、天野は最後まで悔いなかったように思えます。

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参考にした資料

  • 『日本大百科全書』『日本人名大辞典』『山川 日本史小辞典』(コトバンク「天野八郎」)
  • 山崎有信『彰義隊戦史』
  • Wikipedia「天野八郎」「彰義隊」

文:佐藤秀信
※イラストはイメージです

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