【現地取材】勝海舟記念館と洗足池—「富士を見ながら土に入りたい」と願った海舟の別邸跡

大田区立勝海舟記念館の正面玄関と館名板。昨和3年に建った旧清明文庫の建物

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東急池上線の洗足池駅を降りて、池のほとりを歩くと、昭和初期のどっしりした建物が見えてきます。大田区立勝海舟記念館です。そしてそのすぐ近くには、勝海舟が晩年を過ごした別邸「洗足軒」の跡と、海舟夫妻が眠る墓があります。

江戸城の無血開城を成しとげた海舟は、なぜ江戸の中心から離れた、この池のほとりを最後の場所に選んだのでしょうか。現地の説明板を手がかりに歩いてみました。

大田区立勝海舟記念館。昭和三年(1928)に完成した旧清明文庫の建物を使っています。
大田区立勝海舟記念館。昭和三年(1928)に完成した旧清明文庫の建物を使っています。
目次

この場所から、幕末はどう見えるか

  • 慶応四年(1868)三月—海舟は西郷隆盛と会うため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺へ向かう途中、洗足池のほとりで休んだと伝わります
  • 明治二十四年(1891)—その景色を忘れられなかった海舟は、池のほとりに土地を求め、別邸「洗足軒」を建てました
  • 明治三十二年(1899)—「富士を見ながら土に入りたい」という願いのとおり、海舟はこの地に葬られました

勝海舟別邸「洗足軒」跡

記念館の近く、大森第六中学校の敷地の角に、「勝海舟別邸(洗足軒)跡」の説明板が立っています。

「勝海舟別邸(洗足軒)跡」の説明板(公益社団法人洗足風致協会、平成十一年三月)。左上に海舟の肖像、右下に茅葺きの洗足軒の古写真がのっています。
「勝海舟別邸(洗足軒)跡」の説明板(公益社団法人洗足風致協会、平成十一年三月)。左上に海舟の肖像、右下に茅葺きの洗足軒の古写真がのっています。

説明板によると、海舟の別邸は茅葺きの農家風の建物でしたが、戦後まもなく焼けてしまいました。いまは中学校の敷地になっていて、建物は残っていません。

説明板は、海舟と洗足池の出会いを次のように伝えています。鳥羽・伏見の戦い(慶応四年、1868)で旧幕府軍が敗れたあと、徳川慶喜から幕府側の代表として後始末を任された海舟は、官軍の参謀・西郷隆盛(南洲)と会うため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺へ向かいました。その途中で通りかかった洗足池の茶屋で休み、池のまわりの自然に心をひかれたといいます。

その後、江戸城は戦わずに明け渡され、江戸の町は戦火を免れました。そして明治二十四年(1891)、海舟は農学者の津田仙(津田梅子の父)の仲立ちで池のほとりに土地を求め、自ら「洗足軒」と名づけた別邸を建てます。説明板には、海舟が詠んだ次の歌も紹介されています。

池のもに 月影清き今宵しも うき世の塵の跡だにもなし

晩年の海舟は、この別邸で静かに暮らしながら、さくら・松・秋の草花などを植えて楽しんだと伝わります。

「富士を見ながら土に入りたい」

明治三十二年(1899)、海舟は七十七歳で亡くなりました。説明板によると、海舟は生前に「富士を見ながら土に入りたい」と話していて、その願いどおり、別邸の裏の丘に墓所が設けられました。墓石の「海舟」の文字は、徳川慶喜の筆と伝えられています。はじめは海舟一人の墓でしたが、のちに妻のたみもここに合わせて葬られました。墓所は大田区の史跡に指定されています。

幕府の最後の将軍と、その幕府を終わらせる交渉を任された家臣。明治になってからも二人の縁は続き、慶喜の字が海舟の墓に刻まれました。江戸城を明け渡したことを、海舟と慶喜が最後まで一つの仕事として分かち合っていたことを示すようで、胸に残る話です。

大田区立勝海舟記念館

記念館の建物は、もともと「清明文庫」という図書館兼講堂でした。大田区の案内によると、財団法人清明会が、勝海舟ゆかりの史跡を守り、幕末・維新の本や資料を集めて公開するために建てたもので、昭和三年(1928)に完成し、昭和八年(1933)に活動を始めました。渋沢栄一ら政財界の人々も関わっています。

鉄筋コンクリート造で、ネオ・ゴシック様式の縦の線と、アール・デコ風の幾何学的な飾りが特徴です。玄関の扉や窓のまわりの装飾にもその雰囲気がよく残っています。平成十二年(2000)に国の登録有形文化財となり、大田区が改修して、令和元年(2019)九月七日に勝海舟記念館として開館しました。

記念館の前の歩道に埋め込まれたプレート。帆船は、海舟が艦長格として太平洋を渡った咸臨丸を思わせます。
記念館の前の歩道に埋め込まれたプレート。帆船は、海舟が艦長格として太平洋を渡った咸臨丸を思わせます。

小栗上野介との対比

海舟と同じ時代に幕府を支えた小栗上野介忠順は、官軍との徹底抗戦を唱えて退けられ、慶応四年閏四月、上州権田村で斬られました。一方の海舟は、恭順の道を選んで江戸城を明け渡し、明治政府でも要職に就いて七十七歳まで生きています。同じ幕臣でありながら、二人の最期の場所は、権田の山里と洗足池のほとりという対照的なものになりました。二人の比較は小栗忠順と勝海舟を比べる、小栗ゆかりの地は【現地取材】小栗上野介ゆかりの地―横須賀と駿河台を歩くで紹介しています。

歩いてみて分かったこと

「無血開城」の舞台は、江戸城だけではなかった

無血開城というと、江戸城や、海舟と西郷が会った薩摩藩邸を思い浮かべます。しかし洗足池の説明板は、交渉に向かう海舟の道すじを伝えています。池上本門寺の官軍本陣、その途中の洗足池。江戸の南の郊外にも、江戸を戦火から救った交渉の足跡が残っていたのです。江戸城そのものは【現地取材】江戸城を歩くで紹介しています。

海舟を記念する場所が、平成・令和まで守られてきた

別邸は戦後に焼けましたが、墓所は区の史跡として、説明板は地元の洗足風致協会の手で、清明文庫の建物は学習研究社を経て大田区へと受け継がれ、記念館として生まれ変わりました。海舟を慕う人たちが、九十年以上にわたってこの場所を守り続けてきたことが分かります。

訪ねるなら

  • 大田区立勝海舟記念館:東京都大田区南千束2-3-1。東急池上線「洗足池駅」から徒歩約6分。国登録有形文化財(旧清明文庫)。開館時間・休館日・観覧料は大田区の公式ページでご確認ください
  • 勝海舟別邸(洗足軒)跡:記念館の近く、大森第六中学校の敷地の一角に説明板があります
  • 勝海舟夫妻の墓:洗足池のほとり。大田区指定史跡
  • 取材日:令和七年(2025)一月十二日

江戸城の無血開城を西郷隆盛と談判する前に、海舟の使いとして西郷のもとへ向かった山岡鉄太郎(鉄舟)のページもあわせてご覧ください。

▶ 大河『逆賊の幕臣』の登場人物を知る

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この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真と、現地の説明板(公益社団法人洗足風致協会)の記載、大田区の公式案内をもとに書いています。史実にあたる部分は、あわせて公開されている文献資料で確認しています。

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

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