土佐藩(高知藩)/山内家20万2600石:山内豊信(容堂)鳥羽・伏見の戦いから会津戦争など戊辰戦争を戦い抜いた土佐藩

目次

土佐藩(高知藩)の歩み

土佐藩は戦国時代の末期、掛川城主「山内一豊」が「関ヶ原の戦い」の功績により徳川家康から土佐一国を与えられました。前領主だった「長宗我部盛親」は改易とされました。特に藩内の身分が厳しく、旧長宗我部家臣団は郷士扱いとされ、掛川より率いてきた家臣団は上士扱いとされました。郷士は基本的には藩主にお目見え出来ないなど、厳しい身分制度でした。また、上士は郷士への無礼討ちを容認されていました。

土佐藩(高知藩)/場所・アクセス・地図 山内家20万2600石:山内豊信(容堂)鳥羽・伏見の戦いから会津戦争など戊辰戦争を戦い抜いた土佐藩【幕末維新写真館】

幕末には、15代藩主「山内豊信(容堂)」が「吉田東洋」を起用して藩政改革を断行しました。東洋は保守派門閥や郷士の反感を買い、「武市瑞山(半平太)」を中心とした土佐勤王党によって暗殺されました。のちに実権を回復した保守派勢力により、土佐勤王党は容堂(豊信)の激しい報復を受け、武市瑞山の切腹や党員の処刑など多くの弾圧を受けました。

なお、東洋の門下より「後藤象二郎」や「板垣退助」、「岩崎弥太郎」ら明治を代表する人物が輩出しています。その他、郷士出身の「坂本龍馬」や「中岡慎太郎」など多くの優れた人材が輩出されました。龍馬や後藤を通じて容堂から15代将軍「徳川慶喜」へ大政奉還が献策され、江戸幕府の幕が閉じられました。土佐藩は薩長土肥の一角をなし、時代転換の大きな役割を演じました。

慶応四年(1868年)一月三日、 旧幕府軍の発砲で「鳥羽・伏見の戦い」が勃発すると、容堂は土佐藩兵約100名を上京させたにもかかわらず、この戦には加わるなと厳命しました。しかし、在京の土佐藩兵らは「板垣退助」より戦闘に加わるよう密命を受けていたので、容堂の制止を振り切り薩土密約に基づいて新政府側に就いて戦闘に参加しました。

同一月七日、西郷から「討幕の合戦近し」という密書を受け取り、さらに開戦したことを「谷干城」から報告を受けた土佐在国中の「板垣退助」は、薩土密約に基づいて「迅衝隊」を率いて上洛しました。容堂は、京都を進発する前夜の二月十三日、東山道へ出発する「板垣退助」率いる土佐藩迅衝隊に寒いので自愛するよう言葉を与えました。

板垣退助率いる土佐藩兵は中山道鎮撫使として江戸を目指し、江戸城無血開城のあとは北関東や会津戦争、一部は函館五稜郭の戦闘にも加わりました。この戦闘で活躍した指揮官達が明治新政府の中で活躍しました。

なお、会津若松城攻めでは土佐藩が先鋒を務め、城下町の戦闘で多大な犠牲をだし先鋒を交代しています。明治四年(1871年)、廃藩置県により高知県となり、山内氏は明治十七年(1884年)の華族令により侯爵に列せられました。

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【現地取材】岡豊城跡を歩く—長宗我部の敗北が生んだ「郷士」と、幕末土佐の身分の壁

土佐藩をもっと深く—二十万石と二十四万石、どちらも正しい理由

石高が二重になっている藩です

土佐藩の石高は、資料によって数字が変わります。これは誰かが間違えているのではなく、朱印高(表高)と内高(実際の収量)が別に記録されていたためです。

朱印高のほうは、世界大百科事典が二十万二千六百二十六石と二十六石まで細かく記し、ブリタニカと日本大百科全書は二十万二千六百石とします。いっぽう内高は、日本大百科全書が「実際は二十四万八千三百石余」、世界大百科事典が「本田二十四万石」。そして高知県の公式サイトは「山内一豊が土佐二十四万石の国主として入国」と、内高のほうを採っています。

当ページの見出しは朱印高の二十万二千六百石です。県公式の二十四万石と食い違って見えますが、どちらも正しい—そういう藩だと押さえておくと、他の資料を読むときに混乱しません。なお家格は外様で、ブリタニカは詰席を大広間とします。

入国の年が二つあるのも、同じ事情です

山内一豊が土佐へ入った年も、慶長五年(1600年)と慶長六年(1601年)が並びます。これも整理できます。関ヶ原の戦功で土佐を与えられたのが慶長五年十一月、実際に浦戸城へ入城したのが慶長六年正月八日です。高知城公式は両方を書き分けており、「慶長五年十一月に初代藩主として在任開始」「翌六年一月八日に浦戸城に入城」と記しています。高知県公式が「慶長六年に入国」とするのは、後者を採ったものです。

名前の読みにも触れておきます。高知城の公式サイトは「やまうち・かつとよ」とし、日本大百科全書や世界大百科事典は「かずとよ」、ブリタニカと精選版日本国語大辞典は「やまのうち・かずとよ」とします。山川日本史小辞典は「『かつとよ』とも」と併記しています。地元の城が「かつとよ」を採っているのは、覚えておいて損のないことです。→ 掛川藩

上士と下士—公式資料はどこまで書いているか

土佐藩を語るとき必ず出てくるのが上士と下士の身分差です。この構造を最も簡潔に書いているのは、世界大百科事典の旧版でした。土佐藩士は「留守居組以上を上士、郷士以下を下士と称したが、のちその中間に白札身分が派生した」。三層になっていたのです。

成り立ちについて、改訂新版世界大百科事典はこう説明します。土佐藩の郷士制度は「慶長五年新藩主山内氏入封時における旧国主長宗我部氏家臣団の積極的・消極的抵抗に端を発している」もので、懐柔のために慶長郷士を登用し、のちに百人衆郷士などを取り立てた。そして幕末には「上士と下士の差別は根深く」あった、と。

ここで注意しておきたいことがあります。高知県の公式ページには、上士・下士の記述が一切ありません。高知城歴史博物館の幕末維新期の解説にも、身分差を幕末の行動の原因とする書き方は見あたりません。自治体側で明快なのは高知市の「龍馬の生まれたまち記念館」で、「土佐藩の身分制度は厳しく、郷士の家に生まれた龍馬は裕福と言えども、郭中に居住することは出来なかった」「同じ武士でも身分差は歴然としていた」と書いています。

つまり「身分差が厳しかった」「郷士は城下の郭中に住めなかった」までは公式が保証していますが、「その身分差が土佐の政治行動を決定づけた」という因果の断定までは、公式資料は踏み込んでいません。よく語られる筋書きですが、ここは事実と解釈を分けておきます。

身分差が実際にどう働いたかは、後で出てくる武市半平太と岡田以蔵の死に方の違いにはっきり出ます。

白札という中間身分

先ほど出てきた白札(しらふだ)について、高知市の公式ページが明快に書いています。武市半平太の身分は「上士と下士の中間にあたる白札」。上でも下でもない、幕末の土佐でいちばん動きやすく、いちばん割を食いやすい位置です。

いっぽう世界大百科事典の旧版は武市を「郷士武市半右衛門正恒の長男」と書いており、自治体公式は「白札」、事典は「郷士」と語が揃っていません。同じ人の身分を指す語が資料でずれる—それ自体が土佐の身分制の細かさを物語っています。

坂本龍馬の家についても書いておきます。高知県立坂本龍馬記念館によれば、坂本家の本家は才谷屋(さいだにや)という商家で、龍馬の家はそこから分家して郷士の株を取得した家です。「龍馬の生まれたまち記念館」は「才谷屋三代目の八郎兵衛直益は、大浜姓から坂本姓に改め、長男の兼助を分家させ郷士坂本家の初代とした」「坂本龍馬は郷士三代目の子」と説明しています。身分を買って武士になった家の、三代目だったわけです。

容堂は、分家から本家へ入った人でした

山内容堂(豊信)は文政十年十月九日生まれ、明治五年六月二十一日没、享年四十六。この数字は日本大百科全書、高知城歴史博物館、品川区公式が一致しています。

そして襲封の事情が面白いのです。高知城歴史博物館の説明を読むと、容堂は分家である南邸(なんてい)山内家の当主で、嘉永元年(1848年)に十四代豊惇が急死したために十五代藩主となりました。同館は「豊惇の隠居(実は死去)により家督相続」と、わざわざかっこ書きで注記しています。つまり当主の死を隠して隠居扱いにし、分家から養子を立てて相続させた—大名家が家を絶やさないために使った手続きが、そのまま記録に残っているわけです。このとき容堂は二十二歳でした。

吉田東洋を仕置役(参政)に起用したのがこの容堂です。東洋は日本大百科全書によれば1853年に起用され、翌年から安政四年(1857年)まで蟄居を命ぜられ、同年暮れに再起用されました。登用・失脚・再登用を数年で往復している人物で、その振れ幅がそのまま土佐藩政の不安定さです。

容堂自身も安政六年(1859年)、安政の大獄に連座して隠居し、幕府から謹慎を命じられます。謹慎が解かれたのは翌年。隠居後に「容堂」と号しました。藩主の座は十六代 山内豊範へ移り、豊範はこのとき十四歳でした。→ 福井藩・水戸藩

吉田東洋暗殺と、土佐勤王党の一九二人

土佐勤王党の結成は文久元年(1861年)八月です。高知市公式はこれを「文久元年(1860)」と書いていますが、文久元年は1861年ですので、かっこ内の西暦は取らないほうがよいでしょう。世界大百科事典の旧版も「1861年(文久1)」としています。

党員の数について、高知市の公式コラムが興味深い数字を出しています。吉田東洋暗殺の実行者について「刺客は那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵の土佐勤王党員(192名の名簿には入っていない)」。一九二名という名簿があり、しかも実行者三人はそこに載っていないというのです。世界大百科事典の旧版は「約200名の党員はほとんど郷士、庄屋などの下士、豪農だった」としています。

吉田東洋の暗殺は文久二年(1862年)四月八日の夜、下城の途中でした。高知市公式は動機を「武市半平太と考えを異にする東洋を排斥して藩主を上洛させるためであった」と説明しています。

同じ日に死んだ二人の、扱いの違い

勤王党の終わりは、身分制の話に戻ってきます。

武市半平太の切腹は慶応元年閏五月十一日。高知県立坂本龍馬記念館が紹介する殉節地の碑文に「慶応元年閏五月十一日この地に割腹す」とあります。場所は高知市帯屋町。享年三十六。同館は勤王党への最終処分を「切腹、獄死二名、斬首三名、禁固七名」と記しています。

そして岡田以蔵が処刑されたのも、同じ慶応元年閏五月十一日です。ただし日本大百科全書はその扱いをこう書いています—「無宿者の扱いで斬首晒首の刑」。

同じ党、同じ日。武市は士分として腹を切ることを許され、以蔵は無宿者として首を斬られて晒された。上士・下士の身分差というものが具体的に何だったのかは、この一日で分かります。「身分差が幕末の土佐を決めた」と因果で書くより、この二つの処分を並べたほうが正確で、しかも強い。

ひとつ書き添えておきます。武市の死について語られる「三文字割腹」(腹を三度切り裂いた)という話は、高知県立坂本龍馬記念館・高知市公式・主要な事典のいずれにも記載がありません。碑文にあるのは「割腹す」までです。伝承の側に置いておくのが誠実でしょう。

海援隊は藩の組織、陸援隊は藩の組織ではありません

脱藩の罪が許された順番

坂本龍馬の脱藩は文久二年(1862年)三月です。高知県立坂本龍馬記念館は「三月」までしか書いていません。よく見る「三月二十四日」という日付は、公式資料では確認できません。

そして復帰は慶応三年(1867年)一月。同館は「慶応三年一月に土佐藩に復帰」「亀山社中は海援隊と名前を変え、土佐藩の組織となり、龍馬は海援隊隊長に就任」と書いています。日本大百科全書は、土佐藩が龍馬と中岡慎太郎の脱藩の罪を赦し、四月に隊長へ任命したとしています。一月に罪を許され、四月に隊長になったという二段構えです。

ここで対比になるのが陸援隊です。中岡慎太郎の陸援隊は慶応三年七月の結成で、事典は隊員を五十人から七十人とします。そしてその性格を、山川日本史小辞典は「直属せずに出京官の管轄のもと」、精選版日本国語大辞典は「土佐藩の援助の下に結成した浪士隊」と書いています。

つまり海援隊は藩の組織になり、陸援隊は藩の援助を受けたが藩には属さなかった。同じ土佐の脱藩者が作った二つの隊で、藩との距離が違うのです。近江屋で一緒に斃れた二人が、それぞれ別の距離で藩とつながっていたわけです。

近江屋事件の日付も整理しておきます。襲撃は慶応三年十一月十五日で、龍馬は当日、中岡は十七日に死亡しました。中岡慎太郎館は「慶応三年十一月十七日」と明記しています。龍馬の十一月十五日は三十三歳の誕生日でもありました。

大政奉還の建白は、十月三日に提出されました

土佐藩の最大の功績とされる大政奉還の建白について、日付と経路がはっきりしています。

国立国会図書館の国際子ども図書館は「1867年10月3日、土佐藩の前藩主山内豊信(容堂)は、15代将軍徳川慶喜に、幕府が朝廷に政権を返上する大政奉還を進言した」とし、日本大百科全書は「十月三日、大政奉還建白書を老中板倉勝静を通して将軍に提出した」、提出者は後藤象二郎と記します。世界大百科事典は容堂名義の建白書に寺村左膳・後藤象二郎・福岡孝弟・神山左多衛が連署したとしています。

そして慶喜の大政奉還の上表が朝廷へ出されたのが十月十四日。建白から十一日で実現したことになります。→ 広島藩

小御所会議の「あの台詞」は、史料にありません

慶応三年十二月九日の小御所会議で、容堂が「幼冲(ようちゅう)の天子を擁して……」と言って岩倉具視にやり返された—という場面が、あまりに有名です。

ところがこの台詞は、自治体公式・博物館・主要な事典のいずれにも見あたりません。史料で確認できるのは、『大久保利通日記』の「越公・容堂公大論、公卿を挫き、傍若無人也。岩倉堂々論破」という記述までです。激論があったこと、岩倉が論破したとされること、それだけは分かる。しかし何と言ったかは分からないのです。

日本大百科全書も「十二月九日夜開かれた小御所会議」で「岩倉具視と大激論」と書くだけで、発言内容には触れていません。岩倉が休憩中に「短刀一本あれば片付く」と決意したという話も同じ位置にあります。台詞は小説やドラマが与えた輪郭で、史料が保証しているのは輪郭の外側だけ—そう分けて読むほうが、かえってこの会議の緊張が伝わる気がします。

鳥羽・伏見に、土佐藩兵は「後から」参加しました

戊辰戦争での土佐藩について、確実に言えることを書いておきます。

国史大辞典は、伏見方面の討幕軍の戦力を「薩藩が小銃隊五隊と砲九門および長州藩歩兵二中隊それに後から参加した土佐藩四小隊で約二千余」と記しています。四小隊、そして「後から参加した」—これが事典が保証している範囲です。

板垣退助が率いた迅衝隊については、高知市立自由民権記念館の資料が「約六百人を率いて」出陣したとしています。高知県の観光情報は「土佐藩兵迅衝隊は致道館に集合、東門から出軍した」と書き、高知城歴史博物館は「板垣退助率いる土佐藩兵が東進して会津若松城攻略にあたりました」としています。会津まで行ったことは博物館が保証しています。

いっぽう土佐藩の戊辰戦争の戦死者数は、高知県・高知市・高知城歴史博物館のいずれの公式資料でも確認できません。この手の数字は意外なほど公表されていません。

板垣退助の名についても触れておきます。旧姓は乾(いぬい)で、日本大百科全書は本名を「乾栄六正成」とし、「板垣退助と名のったのはこのときからである」—つまり戊辰戦争のときに改姓したと書いています。高知市立自由民権記念館も戊辰戦争中の改姓とし、甲州街道経由の作戦のときに「板垣信形の子孫である」と名乗ったことによるとしています。名前そのものが、この戦のなかで生まれたわけです。生没は天保八年(1837年)四月十七日〜大正八年(1919年)七月十六日。

甲州勝沼の戦いは慶応四年三月六日(新暦1868年3月29日)、近藤勇の甲陽鎮撫隊と板垣の隊が大善寺付近で戦いました。山梨県内における戊辰戦争唯一の戦いです。

本丸の建物群がすべて残っている城です

高知城の「唯一」は、出典ごとに言い方が違うので正確に写しておきます。

高知城公式サイトは「本丸の建物群がすべて現存するのは高知城だけです」。高知市公式は「全国でも、本丸御殿が全て存しているのは高知城のみである」。高知県の観光サイトは「現存12天守の一つであり、その中で本丸御殿も残る唯一の城です」。そして高知県公式の城紹介ページは「唯一」という語を使わず、二つの門、天守、本丸書院、納戸蔵、東西の多聞、廊下門、黒鉄門、矢狭間塀などを「完全に残している」と書いています。

天守と本丸御殿がそろって残る城はここだけ、というのが要点です。本丸の御殿は懐徳館と呼ばれています。

指定は昭和九年一月三十日。ただし高知城公式は「昭和九年(1934年)に国宝に指定され、昭和二十五年の文化財保護法により重要文化財となりました」と書いており、この日付は旧法下の「国宝」指定日です。棟数は高知城公式が十五棟(天守・懐徳館・納戸蔵・黒鉄門・西多聞・東多聞・詰門・廊下門・追手門と六つの矢狭間塀)、高知市公式は「天守以下十棟」と別の数え方をしています。史跡としての指定は昭和三十四年六月十八日(高知市公式)。

いまの天守は、寛延二年のものです

高知城の天守は創建のままではありません。享保十二年(1727年)の城下町の大火で、追手門を残して天守はじめほとんどの建物を焼失しました。そして寛延二年(1749年)に天守が完成し、高知城公式は「現在の天守はこの時のもの」と明記しています。城全体の再建が終わるのは宝暦三年(1753年)で、高知県・高知市はこちらの年を挙げています。天守の年と城の年が違うだけで、矛盾ではありません。

そして地味に重要なのが、追手門は大火を焼け残ったという点です。いまの高知城で最も古い建物は、天守ではなく追手門ということになります。築城は慶長六年(1601年)開始、慶長八年に本丸・詰門・廊下門・太鼓櫓が竣工して入城、慶長十六年(1611年)完成。日本城郭協会は現存天守を「四重六階の木造望楼型」としています。

ひとつ訂正しておきたいことがあります。高知城(高知公園)は「日本さくら名所100選」に入っていません。公益財団法人日本さくらの会の一覧で高知県から選ばれているのは香美市土佐山田町の鏡野公園と、佐川町の牧野公園の二か所です。城の桜は見事ですが、この称号は付いていません。日本100名城には八十四番で選定されています。

容堂の墓が高知にないことも、書いておくべきでしょう。墓は東京都品川区東大井の大井公園脇にあり、品川区指定史跡第十一号(昭和五十三年十一月二十二日指定)です。もとは大井村下総山に埋葬され、昭和二十九年に小学校用地買収のため現在地へ移されました。円形の土盛りに自然石の墓碑という簡素なものです。土佐一国を預かった人の墓が、東京の住宅地の公園脇にある—この落差は現地で見ると効きます。

藩校が三つあり、産業には幕末と無関係なものがあります

土佐の藩校は名前が三つ出てくるので、高知市公式の整理に沿って並べます。教授館は宝暦九年(1759年)に八代藩主山内豊敷が創設した「土佐藩最初の藩校」で、文武館の開設にともなって「約百年の歴史に幕を閉じた」。文武館は文久二年(1862年)に吉田東洋が高知城西側に開いた「時勢に合った藩校」。致道館はその後身です。読みは高知市公式が「きょうじゅかん」、コトバンクの事典が「こうじゅかん」と割れています。文武館は、慶応元年(1865年)に致道館と改称したとされます。

産業は、年代を分けておく必要があります。

土佐和紙は延長五年(927年)の『延喜式』に土佐の名が出る千年の歴史を持ち、幕末〜明治に吉井源太が大型簀桁を考案して「紙業王国土佐」の礎を築きました。国の伝統的工芸品指定は昭和五十一年(1976年)。鰹節(土佐節)は文化庁の解説で「近世後期に土佐でカビ付けによる鰹節が成立したとされる」とされ、カビ付けが腐敗を防いで大坂や江戸への流通を可能にしました。登録無形民俗文化財で、登録は2021年9月30日。幕末には確立していた産業です。珊瑚は高知市公式が文化十年(1813年)、高知県公式が文化九年(1812年)に産出・釣り上げの記録を挙げ、天保年間に採取網が考案されました。ただし「当時、土佐藩では珊瑚の所持や販売が禁止されていました」(高知市公式)。産業化は明治以降です。

いっぽう土佐打刃物は長宗我部地検帳(1590年)に三百九十九軒の鍛冶屋が記され、江戸前期の野中兼山の政策で需要が増え、明治に田村喜蔵が弟子を育てた—という流れで、幕末と結びつける根拠は公式資料にありません。砂糖(白下糖)と捕鯨については、起源年代を示す公的な記述を高知県・高知市の公式資料から見つけられませんでした。容堂の号「鯨海酔侯」は高知城歴史博物館が「容堂が用いた数多くある号のうちの一つ」と保証していますが、土佐の捕鯨の史実と結びつけて書ける裏づけはありませんので、号は号として置いておきます。

最後に開成館です。高知市公式は「慶応二年(1866年)に山内容堂により創設」とし、「洋式汽船購入に伴い蒸気学や航海学の西洋知識を導入する機関や、国産品を統制する機関等を置いた」と説明します。運営は参政の後藤象二郎。そして岩崎弥太郎は「開設直後の二月十六日から三月二十七日までのわずかな期間、貨殖局下役として勤めている」だけで、その後は福岡孝弟の命で長崎出張所の再建にあたりました。三菱の創業者は、藩の役所では一か月余りしか勤めていない—この短さは意外です。

廃藩置県では明治四年(1871年)に高知県となり、土佐国は分割されずそのまま県域になりました。高知県公式は「林有造が初代大参事(知事)に就任」と記しています。旧藩主の豊範ではありません。豊範は弘化三年(1846年)四月十五日生〜明治十九年(1886年)七月十三日没、四十一歳で、明治二年に薩長肥の三藩主と連名で版籍奉還を奏請し、高知藩知事となり、明治十七年に侯爵となっています。→ 薩摩藩・長州藩

土佐藩をもっと詳しく

先祖の戦国武将・山内一豊

藩祖の山内一豊は、尾張国岩倉(今の愛知県岩倉市)で、尾張上四郡を治めた守護代・岩倉織田氏の重臣、山内盛豊の三男として生まれました(一宮市木曽川町の黒田城とする説もあります)。山内氏が尾張で名を表すのは一豊の祖父・久豊からと考えられています。のちに豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いの前の小山評定で、いち早く徳川方に付くことを申し出た功により土佐国を与えられました。妻は「内助の功」の逸話で知られる見性院です。一豊は弟・康豊の長男の忠義を養子とし、これが2代藩主となりました。

長宗我部の旧臣への備え

山内家が土佐に入った当初、長宗我部家の旧臣で、半ば農民・半ば兵の「一領具足」たちは新しい領主に従わず、たびたび一揆を起こしました。山内家はこれに備え、領内の要所に重臣を配置します。中村には一豊の弟・山内康豊(二万石)、佐川には深尾重良(一万石)、宿毛には山内可氏(七千石)、窪川には山内一吉(五千石)、本山には山内一照(千三百石)、安芸には五藤為重(千百石)が置かれました。その一方で、各地の庄屋には早くから地位や権利を保証する文書を数多く出し、村の有力者を味方につけています。

一豊ははじめ長宗我部氏の居城だった浦戸城に入りましたが、城下町を開くには狭かったため、今の高知市中心部に高知城と城下町を築きました。藩政が固まったのは2代忠義の時代で、家老の野中兼山を登用して新田開発などを進めましたが、兼山の強引なやり方は恨みを買い、やがて失脚しています。

藩政の浮き沈み

藩の財政は江戸時代中期ごろまでは比較的安定していましたが、宝暦期(1751〜1764年)以降は一揆や、農民が他領へ逃げ出す逃散などが起こりました。9代山内豊雍は質素倹約を柱とする「天明の改革」でいったん立て直します。13代山内豊熈は、馬渕嘉平を中心とする改革派「おこぜ組」を起用して改革に乗り出しましたが、門閥派の反発で失敗に終わりました。容堂による吉田東洋の起用は、こうした改革の試みの延長にありました。

本家と分家・親戚の家

土佐藩には二つの支藩がありました。一つは土佐中村藩です。明暦2年(1656年)に2代忠義の次男・山内忠直が幡多郡中村(今の四万十市)付近で3万石を与えられて立藩しましたが、元禄2年(1689年)、3代豊明が若年寄を病気を理由に辞めたことで将軍綱吉の怒りを買い、3000石への減知を拒んだため廃藩となりました。それ以前の慶長6年(1601年)から寛永6年(1629年)まで、一豊の弟・康豊とその子・政豊が中村で2万石を治めた時期も、中村藩とみなされることがあります。

もう一つが土佐新田藩(高知新田藩)です。安永9年(1780年)、中村藩主家の子孫で旗本家を継いでいた山内豊産が、本藩から1万3000石を分けられて立藩しました。参勤交代をしない定府大名で、代々江戸の麻布古川町の上屋敷に住んだため「麻布山内家」と呼ばれました。6代90年続き、明治3年(1870年)に土佐藩へ編入されています。

領地のようす

土佐藩は土佐国一円を治めました。幕末の村の数は、安芸郡47村、香美郡30村、長岡郡38村、土佐郡23村、吾川郡40村、高岡郡61村、幡多郡109村です(明治3年に編入した高知新田藩領を含みます)。明治維新の後には、北海道の胆振国勇払郡・千歳郡、石狩国夕張郡などの管轄も任されました。

藩校と菩提寺

致道館のかつての表門は、今も武道館の正門として残ります。藩主家の国元の菩提寺は曹洞宗の日輪山真如寺、江戸での菩提寺は曹洞宗の万年山青松寺でした。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、20万2600石(朱印高)のこの藩はおよそ四千七百六十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「土佐藩」「土佐中村藩」「土佐新田藩」「山内一豊」

場所・アクセス・地図

〒780-0850 高知県高知市丸ノ内1丁目2−2−1

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この藩が持っていた艦船

土佐藩(高知藩)の艦船として当サイトで扱っているのは十隻で、内訳は輸送船が七隻、砲艦・軍艦が一隻、その他が二隻です。

幕末の艦船は二十八の勢力に分かれ、最も多いのが幕府の三十八隻、次が薩摩藩の十六隻でした。そのうち十四の勢力は一隻しか名前が残っていません。十隻という数が、この藩の海に対する構えを示しています。

土佐藩の船と貿易を動かした人物については「岩崎弥太郎とは何をした人物か」をあわせてどうぞ。

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