中村藩(土佐藩支藩)/山内家3万石:山内豊明 病気による若年寄辞職で将軍徳川綱吉の怒りを買い廃藩

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藩の歩み

江戸時代初期から中期にかけて3代33年間存在した藩で、明暦二年(1656年)土佐藩2代藩主「山内忠義」の二男「山内忠直」が幡多郡中村(四万十市)三万石を与えられ立藩しました。元禄二年(1689年)3代「山内豊明」は若年寄に累進したが病気を理由に辞職。

中村藩(土佐藩支藩)/場所・アクセス・地図 山内家3万石:山内豊明 病気による若年寄辞職で将軍徳川綱吉の怒りを買い廃藩【幕末維新写真館】

これが時の将軍「徳川綱吉」の怒りを買い蟄居となり、三千石に減知されたが豊明はさらにこれを拒んだため廃藩となりました。

本家・土佐藩との関係

中村藩は、土佐藩(山内家)の支藩で、山内家の分家が土佐の西部・中村を領しました。

ただし、この藩は幕末まで続いた藩ではありません。藩主・山内豊明が若年寄に就いてわずか1週間ほどで役を辞したことが将軍・徳川綱吉の怒りを買い、江戸時代の前期に改易・廃藩となりました。以後、中村の地は本家・土佐藩が治めています。幕末の土佐藩の動きは本家のページをご覧ください。

廃藩のあと、中村には幡多郡奉行が置かれました

元禄二年(1689年)の改易のあと、中村は一時幕府の預地となり、最終的に土佐藩の直轄領に戻されました。そして以後、中村には「幡多郡奉行」が置かれます。「中村奉行所」という呼び方ではありません。

中村城の跡は四万十市中村の為松公園です。元和の一国一城令で廃城となりました。昭和四十年に高石垣が発見され、慶長十八年(1613年)に修復されたものと考えられています。いま建つ天守は昭和四十八年(1973年)に犬山城をモデルとして造られた模擬天守で、四万十市の郷土博物館になっています。

この町が「土佐の小京都」と呼ばれるのは、応仁の乱を機に関白一條教房が中村御所を構え、一条房家が中村を京に見立てて碁盤目状の町割りを行ったことに由来します。いまも鴨川や東山といった京都に見立てた地名が残り、大文字の送り火も続いています。

そして幕末の中村から、一人の志士が出ています。樋口真吉です。文化十二年、幡多郡中村小姓町の郷士の家に生まれました。筑後柳川の大石進に入門して大石神陰流の印可を得て、帰郷して中村に家塾を開くと門弟は千人に及んだといいます。その道場は当時の中村で唯一のものでした。

真吉は土佐西部の勤王党の盟主として知られます。武市瑞山が失脚したあとの善後策の協議では自重論を唱えました。坂本龍馬が十六歳で四万十川の改修工事に従事したとき、真吉は龍馬に稽古を勧めています。そして龍馬が脱藩したのち、大坂の市中で再会したとき、困窮の極みにあった龍馬に一両を渡しました。真吉は戊辰戦争にも従軍し、凱旋後に留守居組へ昇進、明治三年に東京で五十六歳で亡くなりました。墓は四万十市土生山にあり、為松公園の三の丸に島村速雄海軍元帥の撰文による彰徳碑が立ちます。

郷土博物館には、日本で四本しか確認されていない七星剣、樋口真吉の『遣倦録』、そして中岡慎太郎の漢詩も収められています。

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幡多郡から出たジョン万次郎

中村藩が治めた土佐西部の幡多郡からは、幕末の日本にとって欠かせない人物が出ています。中浜(いまの土佐清水市)の漁師の子・万次郎、のちの中浜万次郎(ジョン万次郎)です。天保十二年(1841)、十四歳の万次郎は漁に出て嵐にあい、仲間とともに無人島の鳥島に流れ着きました。半年後、アメリカの捕鯨船に救われた万次郎は、船長に見込まれてアメリカ本土へ渡り、英語や数学、航海術を学びます。

嘉永四年(1851)に琉球を経て日本へ帰った万次郎は、土佐藩に取り調べを受けたのち、藩校で教えるようになり、そこで学んだ者のなかには岩崎弥太郎らもいたといわれます。ペリー来航のあとは幕府に招かれて直参となり、アメリカの事情を伝えました。万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准のために遣米使節が送られた際には、咸臨丸に通訳として乗り込み、勝海舟や福沢諭吉とともに太平洋を渡っています。漂流した漁師の少年が、開国の通訳となったのです。

山内家と中村

中村藩を分けた本家の土佐藩・山内家は、尾張の黒田城で生まれたと伝わる山内一豊に始まる家です(尾張黒田藩の項を参照)。一豊は関ヶ原のあと土佐一国を与えられ、それまで土佐を治めていた長宗我部家の旧臣たちを郷士として下に置きました。この上士と郷士の厳しい身分の差は、幕末になって坂本龍馬や武市瑞山ら郷士出身の志士たちが土佐勤王党を結ぶ背景の一つになります。中村から出た樋口真吉もまた、そうした郷士の一人でした。

中村藩をもっと詳しく

藩の成り立ち:一豊の弟・康豊の中村二万石

中村に山内家の一門が置かれたのは、忠直より前のことです。慶長六年(1601年)、土佐に入った山内一豊は、弟の山内康豊を幡多郡中村に二万石で置き、ほかの一門や重臣も国内の要所に配しました。ただし幕府はこれを正式な支藩とは認めておらず、康豊の時代の中村藩は公式には成り立っていなかったとする説もあります。

慶長十年(1605年)に一豊が子のないまま亡くなると、康豊の子の忠義が十四歳で土佐藩主となり、康豊は徳川家康の命を受けて若い忠義の後見役として藩政にかかわりました。こうして康豊の家が本家を継いだため、中村の山内家はいったん途絶えます。

再興した忠直と、跡を継いだ人たち

初代藩主の山内忠直は、慶長十八年(1613年)九月に土佐藩二代藩主・山内忠義の次男として高知城で生まれました。明暦二年(1656年)、父の忠義が病で隠居し、長兄の忠豊が本家を継いだとき、忠直は三万石を分け与えられ、途絶えていた中村の家を再び興しました。祖父・康豊の中村の家を、孫の代で立て直した形です。忠直は寛文七年(1667年)に五十五歳で亡くなり、長男の山内豊定が跡を継ぎました。

ところが豊定は早くに亡くなり、その子の豊次も幼かったため、延宝五年(1677年)、忠直の子で豊定の弟にあたる山内豊明が養子となって家を継ぎました。豊明は寛永十九年(1642年)の生まれで、藩主となったときはすでに三十代でした。

藩の終わり:一か月足らずの若年寄

改易までの経緯は、日付を追うと非常に短いものでした。元禄二年(1689年)四月十四日に豊明は将軍の側に仕える奥詰衆となり、五月三日には若年寄に任じられます。外様の家の出としては異例の出世でした。ところが一週間後の五月十日、豊明は「病気で放心状態となり、目も見えず耳も聞こえない」として辞職を願い出ました。

これが徳川綱吉の怒りを買い、五月十二日に江戸屋敷を取り上げられて謹慎となります。八月三日に謹慎は解かれたものの、大名から旗本の寄合に格下げするという処分を受け入れようとしなかったため、中村藩は改易となりました。豊明の身柄は遠江浜松藩の青山家に預けられています。元禄五年(1692年)六月に許され、高知城下の小高坂に住み、元禄十七年(1704年)一月に六十三歳で亡くなりました。

中村の地はいったん幕府領となったあと本家の土佐藩に返され、元禄九年(1696年)には土佐藩の幡多郡の役所が中村に置かれました。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、三万石のこの藩はおよそ七百十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「山内康豊」「山内忠直」「山内豊明」、コトバンク「土佐藩」「中村(市)」など

場所・アクセス・地図

〒787-0000 高知県四万十市中村2356

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