【現地取材】江戸城を歩く——無血開城の舞台と、天守なき将軍の城

幕末の藩を歩いて知ろうと各地の史跡を訪ねてきましたが、今回は幕末史の“総本山”ともいえる場所——江戸城です。今の皇居。徳川十五代の将軍が座した城であり、幕末のクライマックス、江戸無血開城の舞台でもあります。ただし、有名な「松の大廊下」の刃傷事件は元禄十四年(1701)の忠臣蔵の発端で、幕末とは時代が違います。今回はそこはあえて素通りし、本丸から北の丸、九段へと、幕末の江戸城だけを追いかけて妻と歩いてみました。

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天守なき将軍の城——天守台

まず驚くのは、これほどの大城郭でありながら、幕末の江戸城に天守がなかったことです。本丸の北に、巨大な石垣だけの天守台が残っています。江戸城の天守は三度建てられましたが、明暦三年(1657)の明暦の大火で焼失したのを最後に、ついに再建されませんでした。天守台の案内板にも、天守があったのはわずかな期間で、その後「天守がない状態が二百十年間続いた」と記されています。

つまり、幕末の将軍たちが暮らした江戸城は、天を衝く天守を持たない城でした。今の天守台の石垣は、大火のあと加賀藩前田家が築き直したもの。すべすべした花崗岩の切込接(きりこみはぎ)は、近世石垣技術の到達点です。角の反りに手を触れると、二百年以上も天守を戴かないまま幕末を迎えた、この城の長い時間が伝わってきます。

江戸無血開城——勝海舟と西郷隆盛

この城の幕末を語るなら、やはり江戸無血開城です。慶応三年(1867)の大政奉還、王政復古を経て、慶応四年(1868)一月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗走。最後の将軍徳川慶喜は大坂から江戸へ帰り、上野の寛永寺にこもって謹慎し、恭順の姿勢を示します。

それでも新政府軍は東へ進み、江戸総攻撃を目前にしました。ここで動いたのが、幕臣勝海舟です。慶応四年三月、勝は江戸の薩摩藩邸で新政府軍参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の明け渡しと引き換えに総攻撃の中止を取りつけました。将軍の正室・天璋院(篤姫)や、皇女で十四代将軍家茂の妻だった和宮による助命嘆願も、徳川家存続の追い風になったといわれます。こうして慶応四年(1868)四月十一日、江戸城は一滴の血も流さずに新政府へ引き渡され、慶喜は水戸へと退きました。百万都市・江戸が焼け野原になる事態は、こうして寸前で回避されたのです。

将軍の城から天皇の城へ

開城後、江戸城のたどった道は劇的です。明治元年(1868)、江戸は東京と改められ、江戸城は東京城と呼ばれて明治天皇が入城。やがて宮城(きゅうじょう)、すなわち今の皇居となりました。将軍の城が、そのまま天皇の城になったのです。

お堀端でいちばん絵になるのが、正門の石橋——いわゆる「二重橋」と、その奥に控える伏見櫓です。手前の石造アーチ橋と奥の鉄橋があわさって二重橋と呼ばれ、伏見櫓は江戸期以来の姿を今に伝えます。将軍を迎え、いま天皇を迎えるこの橋の前に立つと、「幕末」という時代がひとつの城の主を静かに入れ替えた、その事実の重みを感じます。

現存する幕末の遺構を歩く——門と櫓

建物の多くは失われましたが、江戸城には幕末の“実物”がいくつも残っています。まず北の丸の田安門。高麗門と渡櫓門からなる枡形の城門で、寛永期の総構(そうがまえ)完成当時にさかのぼる、城内で最も古い部類の現存建築(重要文化財)です。この門の名は御三卿の田安徳川家にちなみます。じつは無血開城のあと、徳川宗家を継いだのは、田安家から出たわずか数え六歳の田安亀之助——のちの徳川家達(いえさと)でした。慶喜に代わって徳川家を背負い、駿府七十万石へと移っていく少年当主の物語も、この門の向こうにつながっています。

本丸の南西隅には、三重の富士見櫓が現存します。天守を失った江戸城では、この櫓が「天守の代用」とされ、どの方角から見ても美しい「八方正面の櫓」と呼ばれました。幕末の将軍たちが天守の代わりに江戸の町を見はるかしたのが、この櫓です。

そして登城の正門・大手門。枡形の内側には、旧櫓のものと伝わる鯱(しゃちほこ)が据えられています。大名たちが列をなして登城したこの門前は、幕末には暗殺の舞台にもなりました。桜田門外の変(万延元年=1860、大老・井伊直弼が水戸浪士らに暗殺された事件)、そして坂下門外の変(文久二年=1862、老中・安藤信正が襲撃され負傷した事件)。いずれも、この城の門の外で起きた幕末のテロでした。堀端に立つ桜田巽櫓(たつみやぐら)の白壁を水面に映しながら、開国をめぐって沸騰した幕末の緊張を思い返しました。

幕府の洋学最前線——蕃書調所跡と勝海舟

城をいったん離れ、一ツ橋のほうへ足をのばすと、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)跡の標識がありました。蕃書調所は安政三年(1856)、江戸幕府が西洋の書物を解読し海外事情を調べるために設けた組織で、幕臣や諸藩の家臣に英語や洋学を教える幕府直営の学校でもありました。案内板には、その設立に勝海舟が尽力したことも記されています。

この蕃書調所はのちに洋書調所、開成所と名を変え、幕府の崩壊で一度は閉ざされますが、明治政府の開成学校として生まれ変わり、医学校と統合されて東京大学の前身となりました。無血開城で城を明け渡した勝が、同時に日本の近代教育の種もまいていた——開国期の江戸が、剣ではなく学問でも時代を動かしていたことを教えてくれる一角です。

蕃書調所跡の案内板。勝海舟が設立に尽力した幕府の洋学教育機関で、東京大学の前身となった。
蕃書調所跡の案内板。勝海舟が設立に尽力した幕府の洋学校で、のちの東京大学へつながった。

討幕を成した志士たちの像——九段坂公園

田安門のすぐ外、九段坂公園には、幕末を戦った二人の志士の像が立っています。ひとりは品川弥二郎。長州藩士で、長州藩の松下村塾に学び、吉田松陰の薫陶を受けた尊皇攘夷・討幕運動の実働部隊でした。戊辰戦争を戦い抜き、維新後は内務大臣を務めた人物です。もうひとりは騎馬像の大山巌薩摩藩の出身で、西郷隆盛の従弟にあたり、砲術家として鳥羽・伏見から会津へと戊辰戦争に従軍、のちに陸軍元帥・元老へと登りつめました。

かつて徳川将軍が号令した城の、その足もとに、徳川を倒した長州と薩摩の志士の像が並んで立っている——この配置そのものが、幕末という時代の帰結を静かに物語っているようでした。無血開城で城を去った側と、城を受け取った側。両者の記憶が、同じ一角に同居しているのです。

九段坂公園に立つ品川弥二郎の銅像。長州・松下村塾に学んだ討幕派の志士。
九段坂公園の品川弥二郎像。長州・松下村塾に学び、吉田松陰の薫陶を受けた。

現地を歩いて——妻と巡った江戸城

天守のない天守台に登り、無血開城の舞台を思い、田安門や富士見櫓の実物に触れ、蕃書調所跡から九段の志士像まで歩くと、江戸城が「幕末そのもの」を丸ごと抱えた場所だと実感します。将軍の城が一滴の血も流さずに天皇の城へと変わり、それを成した勝海舟の学問が近代の大学へつながり、城を倒した志士たちがすぐ外に像となって立つ。ひとつの城のなかに、時代の転換のすべてが折り重なっています。妻は騎馬像を見上げてしばらく解説板を読みふけり、私は石垣の反りに見入る。同じ場所でも見ているものが違うのが、二人旅の面白さです。

九段坂公園の大山巌騎馬像。薩摩藩出身で戊辰戦争に従軍し、のちに陸軍元帥となった。
九段坂公園の大山巌騎馬像。薩摩藩出身で戊辰戦争に従軍し、のちの陸軍元帥。奥は品川弥二郎像。

華やかな天守はなくとも、江戸城跡と皇居周辺には、幕末維新の記憶がこれほど濃く残っています。東御苑を中心に、二重橋・北の丸・九段までゆっくり歩けば、教科書の「江戸無血開城」の一行が、足の裏から立ち上がってくるはずです。

アクセス(所在地)

江戸城跡の中心・皇居東御苑は、東京都千代田区。地下鉄「大手町駅」や「竹橋駅」からすぐで、大手門・天守台・富士見櫓は東御苑内をめぐれます(月曜・金曜など休園日あり・入園無料)。二重橋は「二重橋前駅」から、田安門・九段坂公園(品川弥二郎像・大山巌像)は「九段下駅」から、蕃書調所跡は「神保町駅」周辺が近く、あわせて半日ほどの散策コースになります。

※本記事の史実は、江戸城・天守台・田安門・富士見櫓・蕃書調所・江戸無血開城などについて、現地案内板および公開資料をもとに確認して記しています。幕末の通史は幕末とは?その始まりと終わりもあわせてご覧ください。

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