【藩名】
広島藩(芸州藩)
【説明】
広島は元々は毛利輝元の主城であったが、「関ヶ原の戦い」で萩へ押し込められ、変わって同戦で戦功のあった「福島正則」が入封しました。2代将軍「徳川秀忠」の時に、幕府の許可なしに城を修復した罪で改易となり捨扶持をもらって川中島へと移っていきました。実際には外様大名を廃絶したい幕府の言いがかりと思われます。福島家の後は紀州から浅野家が移り、以降幕末に至るまでこの地を治めました。

幕末の藩主「浅野長訓」は藩政改革を行い、文久2年(1862年)「辻将曹」を家老に抜擢し「文久の改革」を行ないました。藩政機構・支配体系の中央集権化を図り、財政を強化し軍備を近代化し成功をみました。長州征討が始まると広島城は最前線基地となり戦争景気に湧きました。しかし広島藩としては長州征伐には否定的であり、幕府と長州藩の仲介を務める一方で幕府が命じた長征の先鋒役を辞退しています。
慶応2年(1866年)に第14代将軍「徳川家茂」が死去し、第二次長州征伐が事実上幕府軍の敗退に終わると、広島藩は次第に長州藩の影響を受けるようになり、慶応3年(1867年)には長州藩・薩摩藩と同盟を結ぶに至りました。その一方で、第15代将軍「徳川慶喜」に「大政奉還」を推進するなどもしています。
戊辰戦争が勃発すると広島藩は軍を京都の送り込むも「鳥羽・伏見の戦い」には加わらず日和見を通しました。この一件から広島藩が新政府中枢になれなかった所以でしょう。その後は新政府軍に加わり各地に藩兵を送り戦いました。
明治2年(1869年)6月、第12代藩主「長勲」は版籍奉還により広島藩知事に任じられ、明治4年(1871年)には「廃藩置県」により広島県となりました。なお長勲は昭和12年(1937年)に96歳で死去するまで長寿を保ち「最後の殿様」ともてはやされたといいます。
★もう一つの倒幕勢力 ― 薩土芸三藩盟約
幕末の倒幕勢力といえば「薩長」と語られます。しかし慶応三年の時点では、もう一つ数えられていた藩がありました。安芸——広島藩四十二万六千石です。
慶応三年六月、薩摩・土佐・安芸の三藩が薩土芸三藩盟約を結びます。武力倒幕と大政奉還——二つの道を並べて構え、状況に応じて使い分けようという同盟でした。
広島藩の周旋にあたったのが家老の辻将曹(維岳)です。彼は薩摩の大久保利通や土佐の後藤象二郎と行き来し、大政奉還路線の実現に深く関わりました。
しかし、密勅からは外された
ところが同年十月、討幕の密勅が下ったのは薩摩と長州だけでした。
広島は外されます。
理由は、広島藩が最後まで「戦わずに政権を返させる」路線にこだわったからだと言われます。——武力倒幕を望む薩長にとって、広島は少し慎重すぎたのです。
もし密勅が「薩長芸」に下っていたら、明治政府の顔ぶれはずいぶん違っていたはずです。広島は、倒幕の主役になりそこねた藩でした。
それでも鳥羽・伏見では新政府側に
慶応四年正月、鳥羽・伏見が始まると広島藩は新政府側として出兵します。農民や町人から募った神機隊などの諸隊を組織し、その後は東征軍に加わって各地を転戦しました。
——主役にはなれなかったけれど、大政奉還という「戦わない選択肢」を最後まで机の上に残したのは広島藩です。幕末の日本が全面内戦にならずに済んだ理由の一つを、この藩は担っています。
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