幕末の藩を歩いて知ろうと各地の史跡を訪ねていますが、今回は少し毛色の違う土地に足を運びました。兵庫県赤穂市。名前を聞けば、多くの人が思い浮かべるのは「忠臣蔵」——元禄十五年の討ち入りでしょう。けれど赤穂は、元禄で時が止まった町ではありません。赤穂城はその後も幕末・明治まで森家二万石の藩庁として現役であり続け、幕末には藩を二分する凄惨な事件の舞台にもなりました。そして元禄の義士たちは、幕末の「尊皇」の気運のなかで思わぬ再評価を受けます。妻とふたり、忠臣蔵の里を「幕末」という眼鏡で歩き直してみました。
赤穂城——森家二万石、幕末まで“現役”だった城
赤穂城が築かれたのは、浅野長直が入封したのち、慶安元年(1648)から寛文元年(1661)にかけての十三年がかりの大工事でした。縄張(設計)を担当したのは甲州流軍学者の近藤正純。承応二年(1653)には、当時この地に身を寄せていた兵学者・山鹿素行が二の丸門まわりの手直しを助言したと伝わります。
面白いのは、この城が「見せるための城」ではなく実戦仕様の要塞だという点です。本丸を二の丸が囲む変形輪郭式に構え、石垣の随所に横矢を掛け、枡形を多用する。鉄砲での防御戦を強く意識した、近世城郭のなかでも武張った縄張です。実際に大手門から本丸へ歩くと、道が何度も直角に折れ、そのたびに石垣が視界をふさぐ。攻め手を狙い撃つための設計が、そのまま体で分かります。
その一方で、本丸には堂々たる天守台が積まれながら、江戸時代を通じて天守そのものは一度も建てられませんでした。二万石の身代には過ぎた城——それでも石垣だけは一級品で、天守台の上に立つと城下と瀬戸内の光がよく見渡せます。




元禄十四年(1701)、藩主・浅野長矩の刃傷事件で浅野家は改易となり、翌年の討ち入りへと続きます。その後、宝永三年(1706)に森家が入り、以後十二代・百六十余年にわたって明治維新まで赤穂を治めました。私たちが今歩いている大手門(昭和30年再建)や本丸門(平成8年復元)、隅櫓の向こうには、忠臣蔵だけでなく、この森家の幕末が横たわっているのです。
幕末の赤穂を襲った「文久事件」——藩を二分した尊皇攘夷
幕末、赤穂藩もまた尊皇攘夷の激流と無縁ではいられませんでした。天保の飢饉以来の財政難に、藩政の主導権をめぐる対立が重なり、下級藩士のあいだに不満が渦巻いていきます。そして文久二年(1862)十二月九日、事件は起きました。
尊皇攘夷を掲げる若い藩士十三名が決起し、佐幕的とみなされた国家老・森主税と、藩の重臣で儒学者でもあった村上真輔の二人を襲撃して斬殺したのです。真輔は自邸で、主税は赤穂城中でほぼ同時に討たれました。実行した十三名は「両名が藩政を壟断した」とする斬奸状を残して脱藩し、土佐藩の手引きで京へと逃れます。世にいう「文久赤穂事件」——のちに「十三士」と呼ばれる者たちの凶行でした。
元禄の赤穂事件が「主君の仇を討つ」物語だったとすれば、この幕末の赤穂事件は、時代の思想に駆られた藩士が藩の重臣に刃を向けた、まったく別種の悲劇でした。同じ町で、百六十年をへだてて起きた二つの「赤穂事件」。その落差にこそ、幕末という時代の熱と暗さがにじんでいます。
「日本最後の仇討ち」——作水峠へ続いた遺恨
物語には、さらに後日談があります。斬られた村上真輔の遺族は、父の汚名をそそぐことを願い続けました。明治維新をへて、ついに真輔の雪冤(無罪)が認められると、遺恨は一気に噴き出します。明治四年(1871)、高野山の森家廟所の守護を命じられていた加害者側の残党六名を、村上の息子ら七名が作水峠で待ち伏せし、討ち果たしたのです。
これは、政府が仇討ちを禁じる直前に起きた事件として、しばしば「日本最後の仇討ち」と語られます。元禄の義士の討ち入りに始まった赤穂の物語が、幕末の暗殺を経て、明治初年の仇討ちで幕を閉じる——赤穂という土地は、二百年にわたって「忠と仇」の主題を反復し続けたのだと、あらためて思わされました。真輔の次男・河原駱之助は事件直後に城下の福泉寺で自刃しており、その墓は今も同寺に残っています。
最後の藩主・森忠儀と戊辰戦争
では、藩の頂点にいた殿様は、幕末をどう生きたのか。赤穂藩最後の藩主となったのが森忠儀(もりただのり)です。慶応四年(1868)に家督を継いだ若き藩主は、鳥羽・伏見の戦いののち新政府側に与し、戊辰戦争では近隣の姫路藩攻撃にも加わりました。譜代でも親藩でもない外様小藩が、いち早く時流を見極めて官軍についた恰好です。
明治二年(1869)の版籍奉還で忠儀は赤穂藩知事となり、明治四年(1871)の廃藩置県でその職を解かれます。二万石・十二代の森家の統治は、こうして静かに幕を下ろしました。忠儀はのちに子爵に叙せられています。大手門をくぐりながら、この城の最後の主が見たであろう時代の変わり目を、少し想像してみました。
大石神社——元禄の義士と幕末の“尊皇”が交わる場所
城の三の丸、かつて大石内蔵助はじめ家臣の屋敷が立ち並んだ一画に、大石神社が鎮座しています。参道の両側には四十七義士の石像がずらりと並び、独特の迫力。この神社が実際に創建されたのは明治後期から大正元年(1912)にかけてのことで、じつは「幕末より新しい」社です。




なぜ元禄の義士を祀る神社が、明治になって生まれたのか。ここに幕末とのつながりがあります。幕末、吉田松陰をはじめとする尊皇の志士たちは、主君への「忠義」を貫いた赤穂義士を、自らの生き方を照らす鑑として熱く敬慕しました。そして維新が成るや、明治元年(1868)十一月、東京へ向かう途上の明治天皇は、勅使を泉岳寺の義士の墓へ遣わし、「汝(なんじ)良雄ら固く主従の義を執り…朕深く嘉賞す」と勅諚をもって義士を顕彰、金幣を賜いました。元禄の“私の忠義”が、幕末・維新の“尊皇”の文脈で国家的に称えられた瞬間です。大石神社の創建は、その顕彰の気運が地元で結実したものと言えます。
神社のすぐそばには、大石良雄(内蔵助)宅址の長屋門が現存し、標柱が静かに立っています。少し歩けば片岡源五右衛門宅址など、義士ひとりひとりの屋敷跡が城下に点在する。元禄の忠臣を仰いだ幕末の志士たちが、もしこの地を訪ねたら何を思っただろう——そんな想像がふくらむ一画でした。
現地を歩いて——妻と巡った赤穂
忠臣蔵の予備知識だけで来ると、赤穂は「元禄の町」に見えます。けれど城の石垣に手を触れ、文久事件の舞台となった城下を歩き、明治天皇の勅諚のことを思い返しながら大石神社の参道を進むと、この町が元禄から幕末・維新まで地続きだったことが、はっきりと立ち上がってきました。妻は義士石像の一体一体を丁寧に見て回り、私は石垣の折れ具合に見入る。同じ史跡でも見ているものが違うのが、二人旅の面白さです。


復元された大手門から堀端をぐるりと歩くだけでも、二万石の城の骨格が体感できます。忠臣蔵の里としてだけでなく、幕末の一藩がたどった激動の記憶をとどめる場所として、赤穂城跡と大石神社はぜひ時間をかけて歩いてほしい史跡でした。
アクセス(所在地)
赤穂城跡・大石神社は、兵庫県赤穂市上仮屋。JR赤穂線「播州赤穂駅」から南へ徒歩約15分です。大手門・大石神社・大石良雄宅址・天守台はいずれも徒歩圏内にまとまっており、あわせて一〜二時間ほどで巡れます。
※本記事の史実は、赤穂城・森家・文久赤穂事件・明治天皇の義士顕彰など、公開資料をもとに確認して記しています。幕末の赤穂藩そのものについては赤穂藩のページもあわせてご覧ください。
